2021年11月

はね奴一代記 リブ2ーシャンバラ2

 当時のリブで重視されていたのは「文化的活動」だった。
 シャンバラでは、ギター教室や英会話教室が開かれていた。
 お客さんにはアメリカ人の女性が何人もいた。
 そのうちの1人が矢野顕子のファンで、彼女のレコードがよくかかっていた。
 昔も今も、彼女のふにゃふにゃした歌い方が苦手なので、これにはちょっと閉口した。

 私は、読書に関心のある仲間と共に「女流文学を読む」会を始めた。

 取り上げる作品は、メンバー誰かの推薦で決まる。最初に読んだのは、宇野千代著『おはん』。読書会がなければ、自分ではまず手に取らない類の作品だった。

 最も印象に残っているのは、宮本百合子『伸子』と佐多稲子『くれなゐ』の読み比べだ。どちらも自伝的な作品である。

 「お嬢様育ち」の百合子はアメリカ留学中に出会った男性と結婚するが、帰国後に離婚。共産党に入党し、獄中にあった宮本顕治(のちの共産党委員長)と再婚する。
 『伸子』は、最初の夫との出会いから別れに至る過程を描いている。

 佐多稲子は、生活力のない両親(まだ学生同士だった)の間に生まれたために貧乏暮らしを続けることになり、キャラメル工場で働いたあと職を転々とし、そこで出会った男と結婚・出産するも離婚。女中、女給として働く中で客の文学者と知り合いになり、小説を書き始める。
 
 佐多も共産党員(のちに除名)で、『くれなゐ』は、プロレタリア文学運動の中で出会った再婚相手との結婚の日々の「苦悩」「相克」を描いている。

 この2作(2人)に関しては、メンバーの意見が真っ二つに分かれた。

 生粋のリブ(? 学生時代にリブに出会い、アルバイト以外の労働経験がない人たちや、現役の学生)であるメンバーは宮本百合子に共鳴。

 佐多稲子に共感したのは、高卒で、労働運動や社会的活動(男性と一緒の活動)を経験した者たち。私はもちろんこちら。圧倒的少数派だった。

 リブの世界では、労働運動経験者は「男チック=男の価値観を内包している」として、色眼鏡で見られがちだった。

     *     *     *

 読書会には京都以外の関西地区からの参加者もあったので、交流範囲は広まった。
 その過程で、私は「婚姻届を提出している」という理由で「糾弾」された。

 当初は「姓を変えるため」という理由に彼女(たち)はしぶしぶ「納得」していたが、離婚した女性が婚姻中の姓を名乗れるようになると(年代は不確か)、「ペーパー離婚すべきだ」と要求してきた。

 離婚後も婚姻中の姓を名乗れるようになったのは、たしか、母親と子どもの姓(=夫の姓)が異なることによるトラブルをなくすためだったと記憶している。

 他人の人生にどうしてここまで介入できるのか、不思議でならない。

 ちなみに、彼女(たち)はシングルマザーで、子どもの父親から養育費を受け取っていたが、書類上は「もらっていない」ことにして、児童扶養手当を(本来受給できる額より)多くもらっていた。いわく「取れるもんは取ったったらええねん」。

 法律の裏をかくことが、彼女たちには「あるべき生き方」だったのかもしれない。

     *     *     *


 同じような「突きつけ」は、私に子宮筋腫が発覚し、全摘手術を決めたときにもあった。「リブ活動の先輩(糾弾者の友人)で子宮筋腫の見つかったAさんは、漢方薬治療を選び、手術を拒んだ。西洋医学にすぐ頼るのは間違っている」と。

 私の病気を代替できるわけでもない女性が、なんでここまで強い調子で私に迫れるのか? 理解できない。

 私は、病院で詳しい検査結果を聞き、それを持って、女性と身体に関する活動をずっと続けていた大阪のグループに相談を持ちかけ、当時はまだ普及していなかったセカンドオピニオン(私が受診した大学附属病院の医師と同じ意見だった)に納得した上で、手術を決めたのに。

 西洋医学をダメと決めつけるリブの風潮は全国的なものだった。それに疑問を抱いていたミニコミの発行者に「手術してよかった」ことを書いて、と依頼され、原稿を送った。

 調べたところ、大阪府のドーンセンターに蔵書があるようだ。
 女の叛逆 よかった子宮筋腫手術

 ちょっと寄り道。
 漢方薬治療を選んだAさんは、のちに病気が進行して、結局、手術を受けている。

 私は長年、漢方専門の診療所に通っているが、ドクターはもともと外科医で、数多の手術を経験されている。西洋医学の限界を知った上で漢方の勉強をされた方なので、どちらかの治療法のみを偏重されているわけではない。これが真っ当な医療だと、私は考えている。

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 リブに集ったのは、社会の中での生きづらさを抱えている女たちだろうから、その憤りが奇妙な形で仲間内のターゲットに向けられることもあったのだろうと、今の私は考えている。

 そして、どういうわけか、私はそのターゲットにされやすかった。

 なぜか?

 私にペーパー離婚を先頭で迫った女性も、子宮筋腫手術を非難した女性も、「女王さま」体質の持ち主である。

 私はどうして「女王さま」タイプに執着されるのか???

 長年の疑問に「答え」らしきものが見つかったのは、中年から初老に移るころだった。
 
 


 

はね奴一代記 リブ1ーシャンバラ1

 西ノ京円町にあった「円丸市場」。その地下に「シャンバラ」はあった。
 仕事を終えた週末、階段を下り、ドアを開けた時に受けた視線のキツさは忘れられない。

 7、8人ぐらいの人がいただろうか。
 「何者?」「何しに来た?」「場違い」エトセトラ。
 歓迎とは真逆のいや〜な視線が揃っていた。

 原因は、私のいでたちにあったと思う。

 背中に届くストレートのロングヘア、生成りのシルクワンピースは共布のベルトでウエストを絞り、ストッキングにグレーの中ヒール。手には濃紺のハンドバッグ。メイクこそしていなかったが、およそ「リブ」の世界にいないタイプだったからだ。

 私のファッションは自分の好みが最優先で、「他人の視線」をまるで気にしない。労働運動の活動家「らしさ」、リブ「らしさ」なんて、一度も意識したことがない。

 リブ系の3代目(?)女王様(笑)に、「そのパンツはお尻が大きく見えるのでやめた方がいい」と「アドバイス」されたことがあったが、お気に入りのワイズのパンツをやめることはなかった(ちなみに、お尻は小さい方がいいという価値観の持ち主だった彼女は、オーバーサイズのセーターにピチピチの黒いスパッツ=今風に言えばレギンスを愛用していた)。

     *     *     *

 1970年代のリブファッションを一言で表現するのは難しい。
 かつて、それがあまりにもリアルに再現されていて笑ったことがあった。

 永井愛さん作・演出の舞台『萩家の三姉妹』。大学で女性学(フェミニズム)を教える長女の教え子が2人登場するのだが、その服装が、まんま、リブファッションだったのだ。
 もっとも、2人のうち片方は、就活にあたって「転向」し、整形手術を受けたりファッショナブルに装ったりするのだが(笑)。

     *     *     *

 話をシャンバラに戻す。
 場違いなのは自分でもわかった。なのでそのまま引き返す気になった。
 が、そこに、声がかかった。
 「あら〜、いらっしゃ〜い! お入りなさいよ!!」
 藤枝澪子さんである。店の一番奥の方に座っておられた。

 藤枝さんの「知り合い」とわかって、場の雰囲気はガラリと変わった。
 彼女がその夜そこにいなければ、私がリブに関わることはなかったか、あるいは、後に関わったとしても、まったく別の形になっていただろう。

 同じ経験を数年前にしたばかりだった。大学の門でビラを配布する「全臨闘」の女性に声をかけたときである。あの時も、「胡散臭い」という目つきで見返され、警戒されたものだった。
 「全臨闘」は、実質的には「サークル『村』」で、外部に開かれているとは言えなかった。


 「シャンバラ」もまたそのような活動体だということは、初日のこの体験で、私には直感的に分かったはずだ。
 にもかかわらず、歓迎されていないドアをこじ開けて入ってしまった私は、ここでもまた「浮いた」存在になる。簡単な言葉で言えば、とても「嫌われた」。

 物おじしない積極的な性格は、実社会ではトラブルの元になる(苦笑)。

 『シャンバラの閉じ方を考える』という冊子には、私への悪口が満載らしい。
 「らしい」というのは、「読んだら嫌な気持ちにしかならないと思うので、読まない方がいい」と忠告する人がおり、それに従ったからだ。

 いまどきのネット「炎上」と同じで、私以外の人の言動も私のせいになったり、事実を彼女たちに好都合なように捻じ曲げたりした部分が、少なくないらしい。

 それを読み、私の言い分を聞かずに私のことをああだこうだと批判する人たちは、放置した。事実関係を自分で確かめもせずに決めつける人たちとは、どうせうまくいかないし、「八方美人」になる気はさらさらないので。

 嫌われる理由は、おおかたこんなふうだろうと、私は考えている。

 私の「主張」には「説得力」がある。
 やりたい企画を実現する行動力もある。
 私の考えや提案に共鳴する人も一定数おり、物事が進む。
 気に食わないけれどもそれに「便乗」する人たちが出てくる。
 そして、物事が完了すると、「便乗」したことへの自己嫌悪も加わって、私をいっそう嫌いになる。
 嫌いになった人同士がつるんで私に敵対する。

 私はさっさと逃げる、あるいは関係を断つ。

 私には「自分の信念に従って行動する」ことが「嫌われない」ことより数層倍大事なので、彼女たちとは「たたかわない」。誰になんと言われようと、逃げた方がいいと感じたら逃げることも厭わない。
 ただし「逃げる」のは自分の信念を守るためであって、責任放棄の逃避ではない。ここは強調しておきたい。

     *     *     *

 30代の後半まで、私はリブの世界にどっぷり浸かっていた。
 その間にやったことはそれなりに意味があったと、今も思う。(続く)

 

 

はね奴一代記 京大全臨闘13ー結婚4

 S荘時代の印象的な思い出を2つ書いておきたい。

 その1:家事分担(?)

  学部生時代、夫は友人たちと同じ下宿で共同生活を送っていた時期がある。3人とも仕送りをしてもらっていたが、飲み代に使いすぎると、月末には財布の中身が乏しくなる。そんなときの食事メニューが面白かった。

 主食は、山田パン店さんに「もらう」袋詰めの食パンの端。
 タンパク質は、100グラム30円の「くずハム」。
 野菜はもやし。

 くずハムもやし炒めが主菜。トーストしたパンの端に、バターではなくマーガリンをたっぷり塗って空腹をしのぐのが恒例だった、と。

 他にも自炊ネタがけっこうあったので、夫もそれなりに料理ができるものだと勝手に思い込んでいた。くずハムもやし炒めなんて、フライパンで炒めて塩胡椒するだけなのだから、誰にでもできるはずだし。

 ところが、一緒に住んでみると、夫の料理センスが、ゼロどころかマイナスレベルであることが判明した。

 ある夜、卵豆腐を作ろうとお出汁をとり、卵と混ぜる分に味をつけ、卵を溶き、と、そこまで準備し、夫に「このボールのお出汁が冷めたら、こちらの溶き卵と混ぜて容器に移し、15分ぐらい蒸して」と頼んで、お風呂に入った。

 髪を洗っていると、お風呂のドアを叩いて夫曰く、
 「全然固まらへんのやけど」。

 とりあえず待ってもらい、お風呂を出てキッチンを見て、あきれた。

 当時はときどき豆腐も手作りしていたので、その容器を卵豆腐にも転用したのだが、容器いっぱいに薄い薄い卵液が入っている。
 
 ??!!!!!

 「鍋に残しておいたお出汁はどうした?(すでに怒気を含む私の声)」
 「もったいないと思って、全部入れた」
  ………………………………………………(絶句)

 「あのねぇ、小学校の理科で、タンパク質がどうやって固まるか、勉強したでしょうが! こんだけ水分を加えて固まると思う?!!」

 「たしかに」

 理科の授業は理解できても、料理となると、常識的な判断さえできないのか。
 お鍋の出汁は、卵豆腐にかける「あん」を作るために、あえて残しておいたのに、余計なことをしてくれたものだ(ぷんぷん)。

 結局、固まらない卵豆腐は、何種類かのお野菜を入れて、溶き卵入りのお吸い物にした。

 「下宿時代に料理してたんじゃないの?」
 「料理はMさんの担当で、僕は皿洗いをしていた」

 それ以来、後片付けは夫の仕事になった。
 料理は、基礎の基礎から少しずつ教えていった。

     *     *     *

 洗濯は、1回ずつ交代でやることになっていたが、夫はすぐサボる。文句を言うと、「僕の分は置いといて。自分でやるから」という。
 しかし!

 洗われずに積み上げられた下着を見るのは不快である。当時は松本零士(のちに『銀河鉄道999』で知られる漫画家)の『男おいどん』という漫画が人気で、主人公が洗わずに押し入れに詰め込んでいたパンツにきのこ(サルマタケ)が生えるという気持ち悪いシーンがあって、背筋を寒くさせられていた。

 ああなってはかなわない。
 でも、我慢できないからといって私が洗ってやるのも腹立たしい。

 そこで思いついたのが、洗濯を有料化することである。
 S荘の道を挟んだ反対側にクリーニング店があり、そこでは、学生を対象に、1ネット500円で、水洗い洗濯サービスを行なっていた。それを真似したのである。

 さっそく「井上クリーニング」店の会員カードを作り、1回洗濯するごとに判を押し、10回に達したら、家計とは別の夫の小遣いから5千円出させて美味しいものを食べに行く、というシステムを作った。

 70年代に5000円あれば、けっこう美味しいものが、お酒付きで食べられた。

     *     *     *

 ところが、このシステムを面白がって全臨闘のメンバーに披露したら、大ひんしゅくを食らった。「夫婦の間に資本主義的関係を持ち込むのは間違っている」というのである。

 ????

 逮捕時に妊娠していた2人はどうかといえば、せっせと家事をこなしている。
 いや、それはおかしいでしょうと思ったが、多勢に無勢ではどうにもならないので、私は黙った。

 のちに、イタリアの「家事労働に賃金を」という運動が、日本で紹介された。
 最近では、主演の2人が実社会でも結婚して話題になったテレビドラマ『逃げ恥』で「無償の家事労働」がクローズアップされた。

 今となれば、私の方が真っ当だと胸を張れそうだ(笑)。

     *     *     *


 その2:あっちゃんこー(笑)

 S荘の隣人Hさんは、夫が京大院生、妻が京大職員(公務員)のカップル。私たちが入居してまもなく、男の子が生まれた。名を「あっちゃん」というが、若いお母さんは彼をあやすときなど、「あっちゃんこー」と声をかけていた。



 月日は流れ、2005年のこと。
 京大工学部桂キャンパスに、ロームの寄贈した「ローム記念館」が完成。オープニングセレモニーとして、ピアニスト加古隆さんの演奏会が開かれた。
 私は1980年代から加古隆さんのファンクラブに入っており、この時は、ファンクラブ会員限定の「ご招待」に応募してめでたく当選。夫と2人でいそいそと出かけた。

 そして、会場でバッタリ、Hさん(妻さんの方)と再会した。彼女はまだ京大に勤務しており、キャンパスの移転に伴って、こちらに通勤しているという。お連れ合いは、某私大の教授になっておられた。

 「あっちゃんこー(笑)は元気ですか?」と私たち。
 「30歳になります。今月、結婚するんですよ」とHさん。

 そうか、もう30年経ったのか〜〜〜。

 帰宅後、S荘の階段で、私と夫が代わりばんこにあっちゃんこーを抱いた写真を眺めては、にこにこが止まらなかった。

 

 

 

はね奴一代記 京大全臨闘13ー結婚3

 大型連休が終わって間もない夜中。どどどどっとドアを叩く音がする。何事?

 ドアチェーンをかけた上で誰何した。こんな時間に何ですか、と。

 私服警官だった。

 私たちの結婚祝賀会に出席した夫の友人の1人が、休暇が明けても職場に出勤せず、行方がわからなくなっている。行き先を知っているのではないか、という。
 そんなことは知らないと、追い返した。わざわざ就寝時間を狙ってやってくるところに悪意を感じる。

 「異変」はすぐに起きた。

 私たちの住むS荘は3階建てで、ビルの北側に階段と通路がある。そしてその北側には、木造モルタル2階建てのアパートがある。S荘に遮られて日当たりが良くないので、部屋はかなり空いているようだった。
 その2階の、私たちのドアを開けると目の前に当たる部屋を、警察が借り上げ、私たちの監視を始めたのである。

 陽動作戦。
 私たちのどちらかがドアを開けると、窓から顔を出し「あいさつ」をする。出かける私たちのあとを「尾行」する。2人が一緒に移動するときには尾行も2人。別々の時には、1人ずつついてくる。
 嫌がらせである。


 そのうちに、公安警察の「偉いさん」が、「結婚祝い」を手にやってきた。
 もちろん、追い返した。

 おかしい。何かがおかしい。

 私はかなりきつい調子で夫を詰問した。
 どうしてこういうことが起きるのか? と。

     *     *     *


 発端は私たちの逮捕にあった。
 そもそも逮捕されるようなことを私たちがやったわけではないし、夫が私たちの指導者だったことなどまったくない。
 にもかかわらず、夫は23日ギリギリまで拘束された。取り調べるような事実はないと、警察もわかっているにもかかわらず、である。

 その間、夫は何をされていたのか。

 なんとなんと、夫は、学生運動の中に入り込んで「スパイ」になるよう「説得」されたり「脅され」たりしていたのだ。

 夫がそれに動じなかったので、警察は、嫌がらせの一方で、懐柔策を取る(結婚祝いを私たちが受け取ってしまえば、そこが弱点になる)など、両刀使いで攻める方針を取るようにしたらしい。

 夫にすれば、スパイ候補とみなされただけでも屈辱で、だからなかなかそれを口にしなかったのだろう。

     *     *     *

 残念ながら、大学での私の活動は、警察によってずっと監視されていたらしい(公安警察が、学生か職員のふりをして入り込んでいたのか、あるいはスパイがいたのか)。その結果、夫を取り込むには私が邪魔だと判断して、公安は夫の両親に、私と別れさせた方がいいと「アドバイス」に及んでいたのだ。

     *     *     *

 当然、私たちの会話は盗聴されていると考えておいた方がいい。
 むかつく。腹が立つ。新婚生活ぶち壊しである。

 70年代前半の当時、巷には「エロテープ」というものがあった。性行為をしているかのような大袈裟な音声を録音したテープである。
 私は夫に、「毎晩あれを流しておまわりちゃんたちを疲れさせよう」と提案したが、上品な夫に一蹴されてしまった。

 代わりに私たちは、定期的にホテルに泊まることにした。
 ラブホに対しては私に嫌悪感があったので、泊まるのはシティホテルである。
 予約等は私が担当。2人それぞれ、尾行を巻いて現地集合するには、けっこうなテクニックが必要だった。訓練になった(笑)。

 おかげで(?)、京都市民でありつつ、京都市内のシティホテルはほぼすべて制覇した私たちである。ただ、都ホテルは高すぎたので行っていないと思う。

 最も印象に残っているのは、左京区高野にあったホリデイ・イン。
 いつもツインの部屋を予約していたのだが、ここのツインはそれぞれのベッドがダブルサイズという大きさ。いかにもアメリカやな〜と、感心したものだった。

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 余談だが、私は、誰かと一緒に眠ることができない。というのも、物心ついた時からずっと、1人で眠っていたからである。

 両親どっちの考えだったのか知らないが、私たち3姉妹はずっと1人で寝ていた。
 赤ちゃんから幼児にかけては本当に小さな布団で、そして小学生になると、その倍ぐらいの布団で。そして3段階目でようやく、大人と同じサイズの布団になる。

 子ども用布団二枚分のわたを打ち直して大人用布団になった時、「これで一人前」だと嬉しくなったことを覚えている。

 いま、若いお母さんたちのブログを見ていると、家族が川の字になって寝るという家庭がけっこう多くて、私はびっくりする。


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 夫は教育学部に学士入学して卒業。そのまま大学院に進んだ。
 結婚後3年間は私の「扶養家族」になっていたが、院生になって塾でアルバイトを始めると、あっという間に収入が103万円の壁を超え、私の扶養から外れた。


 

 

はね奴一代記 京大全臨闘13ー結婚2

 私と夫が、岡山のヤバい地域(のちに聞いたところによると、ヤクザが闊歩し、売買春が行われていることで知られる地域)のラブホで疲れて眠りこけていたころ(ロマンチックにはほど遠い精神状態だった)、わが新居では、乱痴気騒ぎが行われていた。

 Sさんが正直に話さないので実情はあやふやだが、彼女と複数の男性(夫側の出席者)が泊まって飲み遊んでいたようだ。

 やがてはっきりしたこと。
 Sさんは、当日泊まった男性のうち2人と、後に性関係を持った。
 すでに婚約者のいた1人は1日限りの「遊び」のつもりだったようだが、Sさんはしばらくその相手にアタックし続け、やがて完全に振られた。

 もう1人とは「結婚」を前提にした交際になったが、例によって例の如く、彼女の方から「結婚は無理」と別れておきながら、数か月後に「やはりもう一度付き合いたい」ので間を取り持ってと私に頼むという、謎のワンパターンの展開になった。

 相手の男性は、文字通り表情を引きつらせて、「あり得ない」と断った。
 正解だ、と、私はうなづいた。

 Sさんの、一種病的とも思える特異な男性関係は、この後も繰り返される。私の周囲にはいわゆる「エリート京大院生」ばかりいるので、彼女は私から離れない。

 お父さんが亡くなった後も仕事をせず、時間が有り余っていた彼女は、「バーベキュー大会は? 海水浴は?」としばしば訊ねてよこし、スケジュールが決まると、飛んで京都にやってくる。そしてそのたびに院生と付き合っては別れ、しばらくのちに「関係を戻したいので間に立って」と私に懇願することの繰り返しである。


 Sさんには、実家近くの郵便局から何度も「うちに来て(働いて)ほしい」との話があったらしいが、地元では「裕福な家の才色兼備のお嬢さん」として知られている自分が「郵便局なんかで(本人の言葉)」働いているところを見られるのは屈辱らしく、何度も断っているうちに、声がかからなくなったそうだ。

     *     *     *

 私が最終的にSさんとの関係を絶った時に、夫は初めて、彼女を嫌っていたことを「告白」した。結婚祝賀会の夜に自分の友人2人をたぶらかし、トラブルを起こした時から、快く思っていなかったそうだ。

 Sさんは、京都に来る時はいつも当たり前のように私たちの部屋を「定宿」にしていたが、それをずっと我慢してくれていたわけだ。いや、申し訳なかった。

     *     *     *

 ただ、Sさんのおかげで私がいい思いをしたことは、書いておくべきだろう。

 1985年の夏から秋にかけて、のべ1月半、私はパリの広〜いアパルトマンに、タダで滞在させてもらった。しかもそのうちの半分の期間、家主さんはバカンスでスペインに出かけたので、私は3LDKの部屋で、1人暮らしを満喫できたのだった。

 この家主さん(Oさんとする)は、2年間、仕事で大牟田に出張滞在しており、その時にSさんと知り合い、付き合うようになった。
 出張期間終了後、Oさんは帰国。SさんはOさんを追いかけてパリに押しかけて同居していたが、私が訪問する直前にお祖母さんが危篤状態になったため、日本に戻っていた。

 Oさんとは日本で面識があった。
 Sさんが、Oさん、並びに彼と共に出張していた同僚(既婚男性)の2人を伴って京都旅行に来たことがあり、私が案内役を務めたからだ。

 お祖母さんの急変のためにSさんが帰国することによって、恋人Oさんと私が2人きりで生活することになるわけだが、それに関するSさんのセリフが、ふるっている。
 「Oがあんたに魅力を感じたり手を出したりするはずがないから、安心よ」。

 たしかに(笑)。

 私とO氏とはとても気が合った。とりわけ男女関係に関しては、大学時代から1人暮らしを始めて家事はなんでもこなせるO氏にとって、「日本人の女性らしく、いちいち口を出したり自分の世話を焼いたりしようとするSは迷惑だ」と断言し、「Sは私に依存するのではなく、自立して働くべきだ」と、主張した。

 また、帰国した彼は新しい人を好きになっており、彼女に会うために、バカンス時にスペインに出かけたのだった。

 私はフランス語ができない(買い物や日常生活で必要な最低限の会話のみ憶えた)ので、O氏との会話は両者にとっての外国語=英語を使っていた。ちょうどいい塩梅に、意思は通じた。

 私とO氏との間には信頼関係ができ、Sさんがやがて振られるだろうことも、この時に確信した。

 なので私としては精一杯のアドバイスをSさんに続けたのだが、結局、別れたいO氏と結婚したいSさん間に揉め事が起こった後の彼女のどうしようもなさに愛想が尽きて、私は関係を断つことにした。

 50歳を超えてしばらくたったころだったと思う。高校の同級生だったGさんから、「Sさんが、やはりあなたと友達でいたいと願っているので、考えてやってくれないか」という「間をつなぐ」手紙をもらった。が、私の気持ちは戻らなかった。

     *     *     *

 岡山から戻って2、3日後、もう一つの、驚きの事件が起きた。


 

 

はね奴一代記 京大全臨闘12ー結婚1

 双方の親に別れるよう求められていた私とI氏だが、逮捕・起訴というアクシデントに遭って以降は、なんとなく結婚する方向に話が流れた。

 夫は同居でいい=婚姻届は出さないつもりだったが、私が求めて、届けを出すことにした。「〇〇家」から離れたかったからである。姓を変えるには、「結婚」が何より手っ取り早いし、ほぼ唯一の方法だからだ(珍しくはあるが裁判を起こすほどの奇妙な姓でもないので、認められる可能性はない)。

 住まいは、京大農学部の北側に位置するS荘に定めた。2Kで、お風呂とトイレは別々。住人のほとんどは京大関係者。夫は大学院生というケースが多かったように思う。夫の就職先が決まればここを出ていくというパターンである。

 個別電話はなく、夜10時までは、大家さんが室内にある内線電話に取り次いでくれるという仕組みだった。

 私たちが住んでいた建物は取り壊され、いまは新築マンションが建っている。ただ大家さんは同じのようで、漢字ではなくローマ字に表記が変わり「荘」を省いたSという名称である。

 結婚式はもちろんしない。夫の両親からのお祝い金で冷蔵庫を、私の親からのお祝い金で洗濯機を購入。その他の経費(礼金、敷金、家賃、水光熱費)、家具や小さな家電、雑貨等の購入は、すべて私の貯金で賄った。

     *     *     *

 夫は、大学卒業後は学生運動関係者の運営する会社に就職して高槻に住むと口にしたこともあるが、私は「特急も停まらない汚い街に住むのは嫌だ。行くなら1人で行けば」と拒絶した。今でこそタワマンが並び、JR新快速も阪急特急も停まるが、45年以上も前の高槻は、それはそれはゴミゴミして汚い街だった。

 結局、夫は、他学部への編入(教養課程を省いて3回生に編入できる)試験を受けることにした。

 「学士入学」受験には、クリアしなければならない要件がある。工学部に合格した時の入試の成績(点数)が、編入を希望する学部の合格最低点を上回っていること。つまり、夫が受験時にその学部を志望していたとしても合格できた場合のみ、編入試験の受験が可能なのだ。

 入試時の成績データを取り寄せた。びっくりした。夫、とても優秀である。医学部を含めて、どの学部を受験していても合格したはずの高得点を得ていたのだ。

 夫は一浪している。浪人時代の1年で大きく成績を伸ばしたわけだが、それは「努力」の賜物だろう。
 大学入学後、超の付く秀才と多々出会った夫の口癖は、「僕は頭がいいわけではない」だったが、「努力の人」であることも素晴らしいと思う。とりわけ、努力らしいことをな〜んもしてこなかった私は、素直に頭を下げる。


     *     *     *


 静かに結婚生活が始まるはずだったのに、そこからちょっとした騒動が続いた。

 まず、夫の友人の間から、結婚式をしないなら祝賀会を開こうとの声が上がった。私が何かを言う暇もなく話は勝手に進み、招待者さえ、私を無視して(苦笑)決められた。

 会場は、京大医学部の東側にあったレストラン「らんぶる」の3階。
 仲人さんがいないので、スペシャルゲストは、婚姻届に署名をしてもらった弁護士さん夫妻(夫が大阪の裁判でお世話になった方)。

 ここで、久しぶりの名前が次々に登場する。私側の招待者として祝賀会に参加してくれた人々である。

 中学時代、生徒会長を務めたNくん(大阪在住)、副会長のKくん(福岡からやってきてくれた)、高校の同級生であるS女王様(苦笑)、「ブスは黙れ」と私に言ったYK。

 臨職闘争関係では、例の2人ではなく、部長発令だった農学部の女性が参加した。この人選は、夫だろう。

     *     *     *

 Sさんは、郵便局に何年か務めたあたりで、お父さんの癌が発覚。1人娘で溺愛されていたこともあり、父のそばで暮らしたいと、仕事を辞めて実家に戻っていた。

 私も、自宅療養中のお父さんを一度見舞ったことがある。婿養子という立場だったのでもともと控えめな方だったが(すこぶる付きのカカア天下だった)、優しい表情は変わらず、「今は椎茸栽培を楽しみにしている」と話してくれたものだ。

 彼女の兄弟はどちらも現役で九州大学に合格・卒業し、著名企業に就職した。

 YKは、京大理学部物理学科を卒業し、院試に挑戦したが叶わず。このときはたしか、院浪中だったと思う。
 大学入学後しばらく経って私に連絡をよこし、「高校時代の自分の視野が狭かった」こと、私に対する横柄な態度を、謝ってくれた。

 そう、交換日記の中でもずっと「上から目線」(←当時はこんな言葉はなかったけれど)だったし、交換日記終了時(卒業時)には、こういうものを読んで勉強しなさいと『三太郎日記』(阿部次郎著)を押し付けてきたのだった。

 ただ、京都で再会後も私に何かを「教える」癖は治らず(笑)、パチンコに行ったことがないと知ると、四条河原町のパチンコ店に連れ出し、お金を私に渡して、玉の購入から打ち方まで「指導」してくれた。このときは2人とも「負けた」ので、換金は経験できなかった。

     *     *     *

 宴は順調に進んだが、終盤になって、発起人(医学部生)が、とんでもないことを言い出した。「結婚したら新婚旅行に行かなあかん。これからみんなで京都駅まで送りに行こう」と。

 ヲイヲイヲイヲイ、冗談じゃないよ! 
 私たちにはそんなつもりはまるでなかった。しかも、その日は5月3日。大型連休の真っ最中である。これから旅に出たところで、宿が取れるはずもないじゃないか。

 こういうとき、夫は「流される」タイプだった。
 タクシーを数台連ねて京都駅八条口に向かう。
 当時、新幹線は岡山止まりだったので、岡山行きの切符をあてがわれる。

 ホームでは「万歳三唱」に次ぐ胴上げと、みっともない光景が繰り広げられた。
 
 岡山に着いたところで、宿など取れるわけがない。
 私たちがようやく見つけたのは、裏ぶれた町にあるラブホだった。
 あ〜うんざり! こんなところに泊まる羽目に陥るなんて!
 不機嫌の極みで私はとにかく眠った。

 同じころ、私たちの新居に泊まることになったSさんは、悪い男ぐせが出て、ろくでもないことをやらかしていた(嘆)。


 
 
 


 

はね奴一代記 京大全臨闘12ー裏取引

 甘かった、としか言いようがない。

 今回の逮捕は「嫌がらせ」「みせしめ」のためであって、よもや起訴されることはあるまいというのが、弁護士さんを含む周囲の予測だった。
 が、それはみごとに外れた。

 逮捕から23日目。I氏が保釈されると同時に私たちは起訴された。
 やがて裁判が始まる。
 それを実質的に担うのは私である。
 なにしろ他の2人の女性は、身体も関心も出産に向けて集中しているのだから。


 大学も、そうとう慌てたようだった。
 逮捕に協力した目的は、私たちの気力を萎えさせ、活動を収束方向に持っていくことであり、首にするつもりまではなかったからだ。

 しかし日本では、起訴された者の99%以上に有罪判決が下っていることが、統計で明らかにされている。

 そして、国家公務員は、禁錮以上の刑が確定すれば、自動的に失職する。
 つまり、私たちは大学から放り出されるわけである。


     *     *     *


 大学は、実にアクロバティックな方法を編み出した。

 執行猶予期間中は「非常勤」として雇用し、終了後は、新人ではなく職務経験者として(失職前の勤務年数と俸給表を引き継いだ形で)採用するというのだ。

 大学は、3人個々バラバラに、話を持ちかけた。
 私に声をかけたのか誰だったか、覚えてはいない。すぐに拒否したので。

 私以外の職員2人は、それを受け入れた。


     *     *     *

 
 「総長発令」や「部長発令」の雇用は差別であり、正規職員としての権利を保障すべきだ、というのが、臨職闘争の主張である。
 実際には何年も働いているにも関わらず、3月30日に契約を終了させ、4月1日に「新規雇用」するという、法の網の目をくぐるような姑息な手段で彼女たちの権利を奪っているのは許し難いと、全臨闘は主張してきた。

 なのに、大学当局の「姑息な手打ち案」を受け入れるのは矛盾している。

 一度は「運動に対する裏切り」ではないかと2人に問題提起したが、彼女たちの答えは揃って「子どものいないあんたには分からん」であった。

 2人のうち片方の夫は学生運動の中でもリーダー的な存在だったが、彼ら/彼女たちの「区分」によれば、私が「活動家」であるのに対し、彼女たちは「生活者」なんだそうである。

 そして学生諸君は、「生活者」たる「労働者」を「断固支持」した。
 一丁前に活動家として主張を貫こうとする私は可愛げがなく、鬱陶しいばかりだったようだ。

 労働運動というものは、生活まるごと、家族ぐるみでの闘いであると(三池炭鉱労働運動で)体感していた私には理解不能の「区分」だった。


     *     *     *


 私は彼女たちと袂を分かった。
 彼女たちは、「身分保障」という大学当局との「裏取引」を隠して、表面的には「戦いを続け」ていた。

 白々しい。厚顔無恥。

 しかし、私は彼女たちが二枚舌を使っていることを公言しなかった。
 公言しないよう、圧力をかけられていたともいえる。


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 裏取引も含めて、彼女たちの動静について私に知らせてくれたのは、運動関係者ではなく、他学部の教授である。

 世界的に知られるギリシャ哲学の研究者であるF教授は大学の評議員を務めており、評議員会で「全臨闘」が議題に上がったときの内容を、私に伝えてくれるようになった。

 「あなたと他の2人とは違うと、前々からボクは捉えている。ボクはあなたの考えに賛同する」と明言して、情報を提供してくれたのだ。

     *     *     *

 I氏とは、逮捕から1年あまり後に結婚した。


 詳細は別項で書くが、氏は、私と他の2人との「対立」に関しては沈黙していた。
 学生運動との関わりもあり、妻であっても「断固支持」するわけにはいかなかったのだろう。

 この話を持ち出すと夫はとても嫌がるが、氏は「学究肌の心優しいおぼっちゃま」であり、私ほど根が強くはない。

     *     *     *

 皮肉にも(笑)、私の人間性を夫より鋭く見抜いている、夫の「学生運動の先輩」がいた。洛北高校に通っていた時代から「天才」と呼ばれていた藤枝さんである。

 あえて姓を書いたのには理由がある。
 ある日、私は藤枝さんに呼ばれ、「今年の『11月祭』に、従姉が教育学部に講演にくる。お前は絶対に聞くべきだ。聞きに行け」と、「命令」された。

 私は「命令」に素直に従って、講演を聞きに行った。
 面白かった。
 話者は藤枝澪子さん(故人)。京都精華大学(当時はまだ短大)の教授で、円町にあったリブの拠点「シャンバラ」のオブザーバー的存在だった。


 藤枝さんとは気が合った。その場で「シャンバラにいらっしゃいよ」と誘われた。それが私とリブとの関わり初めになるのだが、その前に書いておきたいことがいくつかある。

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 今回の原稿を書くにあたり、藤枝氏(京大の方)をネットで検索した。
 あっという間にご本人のTwitterとブログに辿り着いた(笑)。
 現在はスペイン(グラナダ)在住だが、コロナ禍の関係で滞在許可証を再取得しなければならなくなり、近く「来日」されるらしい。

 最後に消息を聞いたのは、女優岸惠子さんのドキュメンタリー番組制作のためにヨーロッパに滞在中との話だったが、それ以降もずっと映像の仕事をされていたようだ。
 ツイッターには毎日の食事内容が写真付きで紹介されている。
 一時期、木屋町で『チボーの家』という店を経営されていたので、料理はお手のものだろう。

 昔の尖ったイメージのまるでない文章にはちょっと驚くが、たしかもう「後期高齢者」だものね。「丸くなって」も不思議ではない。
 

 

 

はね奴一代記 京大全臨闘11ー堀川署3

 留置場のお弁当は麦飯だったが、夜も翌朝も、別に不味くはなかった。

 赤茶色の妙に柔らかいプラスチック製の2段式弁当箱で、片方にはご飯と梅干、もう1段におかずが入っている。ケチな会社が社員の昼食として弁当屋さんに配達させる物のようだった。

 午前中の取り調べが始まるとき、人見のおっさんが、「あんたまさか、妊娠してないやろうな」と聞いてきた。
 「弁護士さんに聞きましたよ〜。2人とも妊娠してたそうですね〜」
 「あんた、知らんかったんか?」 
 「初耳です。びっくりしましたよ〜」

 この日の「取り調べ方針」は「人情落とし」(←私の勝手な命名)だった。
 人見のおっさんは活動家担当らしく、私の前には「中核派の娘さんを改心させた」そうな。「これからは親孝行しますと泣いてたで」と。

 「ふ〜〜〜ん」と私。
 挑発に乗るわけでも、主張をまくし立てるわけでもなく、かと言って動揺を見せたり泣いたりするわけでもない私は、どうやら「新手」の活動家だったらしい。
 取り調べらしいことは何もなく午前中が終了。昼食のために個室に戻る私に、おっさんは、「午後からは、京都府警随一の二枚目の切れ者がくるから、覚悟しとけよ」と言い放った。


     *     *     *


 午後。取調室で待てど暮らせど「二枚目の切れ者」がこない。室内の隅(前日、「のんちゃんのお父さん」が座っていた場所)には、角刈りで細身の「久保」とかいう若い刑事が黙って座っている。

 退屈になったので、私は「みんなのうたシリーズ」と名付けて、歌を歌うことにした。スタートは「ひょっこりひょうたん島」。元は人形劇の主題歌だが、みんなの歌でも放送されていた。もちろん、歌声は控えめである。

 中尾ミエの歌う『雨の遊園地』、『海の底から』(合唱)、五十嵐喜芳さんの『海は招く』、『ラサ・サヤン』(インドネシア民謡)、『わんぱくマーチ』(合唱)、『田植え歌』(フィリピン民謡)、『ドロップスの歌』弘田三枝子、エトセトラ。

 どれくらい歌っただろう。久保のにーちゃんが、突然、「取り調べ中に歌を歌ったやつは初めてや」と、口を開いて机のほうにやってきた。

 え? 取り調べ、もう始まってたん? 人見のおっちゃんが、二枚目の切れ者が来ると言ってたので………の辺りで声が尻すぼみになった。
 もしかして、この久保くんが「二枚目の切れ者」なのか?

 いや、決して不細工とは言わないが、私にすればお世辞にも二枚目とは呼べない風態だったので、私はてっきり、「のんちゃんのお父さん」の代わりの刑事だと思い込んでいた。ただ、「のんちゃんのお父さん」に比べると偏屈そうだったので、声をかけるのをやめていただけなのだ。

 申し訳ない。傷つけてしまったに違いない。
 ときすでに遅し、である。

 多分、その後も、取り調べらしいことがあった記憶はない。

 後で思い返すと、警察としては、久保くんに沈黙させておいて、いたたまれなくなった私が何かを話し出すのを狙っていたのではないかと想像される。

 そらあかんわ。私、沈黙が続いても息が詰まったりしないもの。


     *     *     *


 翌朝早々に、私は呼び出された。いわゆる「書類送検」というやつで、書類とともに本人の身柄も検察庁に送られ、検察官の取り調べを受けることになっている。

 個室を出たとき、例の面白いおっちゃんに、「今日はお風呂の日やで。楽しみやな〜」と声をかけられた。うっぷっぷ。

 結論から言うと、私はヌードを迫られることも披露することもなかった。
 検察庁から戻ってくると、保釈を言い伝えられたからである。
 堀川署の玄関には、弁護士さんが出迎えにきてくれていた。


     *     *     *

 多分、その後は京大で、先に保釈されていた人たちや支援者と会ったと思うのだが、記憶は曖昧だ。I氏はまだ川端署に留置されており、10日間の勾留が認められていた。たぶん、起訴するか否かが決まる23日目まで、後10日間、勾留が延びるだろうとの予測だった。

 アパートの大家が、「過激派には出て行ってほしい」と、入居を仲介してくれた不動産会社(京大生の下宿を主に扱っていた「下宿情報センター」)に押しかけて、強く要望していることも伝えられた。

 センター代表者さんの話をまとめると、これまできちんと家賃を支払っており、トラブルも起こしていないので、強制的に退去させられることはない(大家にその権限はない)が、大家は創価学会の会員(信者?!)で、どうせ揉め続けることになるので、できれば新しい部屋に移った方がいい、とのことだった。

 それからの数日間はアパートに戻れず、I氏の友人の1人で、私もよく知っている農学部大学院生氏の研究室にある簡易ベッドで、寝させてもらった。

 大学院生が研究室に寝泊まりすることは日常的だったし、当時の大学では(共産党系の教職員、学生を除けば)、私たちは「頑張っている職員さん」と評価されていたので、居心地は悪くなかった。


     *     *     *


 2人の女性が妊娠していることがわかると、活動家諸君は大いに盛り上がった。生活を抱えて「闘う」労働者を断固支援しようというわけである。
 
 しかし、私はこれが気に入らない。女を「弱者」とみなして支援したがる男性の意識には、「女は男の指導に従うもの」という強固な信念と優越感があるからだ。

     *     *     *

 私は元通りの勤務に戻った。
 私を告発するハガキを書いたかもしれない組合員の職員は、表面的には平静を装っていた。

 総長発令、部長発令のお嬢さま方は、逮捕前とまったく変わらない対応をしてくれた。それは心強かった。

 のちに、電気系教室の研究室職員(共産党系の1人を除く)で食事会をしましょうとの誘いが回ってきた。会場は、北区にあるフランス料理店『ルルソンキボア』。店名は「酔いどれ子熊」という意味だそうである。

 そこですっかり盛り上がったこともあり、参加者でグループを立ち上げることになった。名付けて「酔いどれマダムの会」。定期的に食事会を開き、一度ではあるが、1泊旅行をしたこともある。彼女たちは運動については一切口にしなかったが、私を職場の同僚として変わらず誘い続けてくれることで、無言の支援をしてくれた。

 彼女たちがお嬢様であることには違いなく、やがて研究者の男性と次々に結婚されたが、彼女たちは、私の訴えを理解してくれていたし、私が大学を離れるまで、関係は変わらなかった。今でもとても感謝している。





 

はね奴一代記 京大全臨闘10ー堀川署2

 午後になっても、取調べらしい調べはない。
 そりゃそうだろう。「罪状」自体がバカバカしいし、「暴行」に関しては「診断書」が出ているらしいが、そんなもの、共産党系の病院がいとも簡単に出すことは、警察も周知の事実だった。

 人見のおっさんは、何が忙しいのか、ちょこちょこ「取調室」を出ていくので、その間、私と「のんちゃんのお父さん」は、のんちゃん話で盛り上がった。写真も見せてもらった。可愛い赤ちゃんだった。

     *     *     *

 夕方になると「取調べ」は終わり、署内の留置場に移動させられる。
 その前に、小さな和室で身体検査が行われた。文字通りスッポンポンになり、お尻の穴までチェックされる。それを担当したのは警官ではなく、事務服を着た女性職員さんだった。
 私は月経の真っ最中で、股間から、タンポンの紐がぶら下がっていた。
 「生理ですか?」と、職員さんが申し訳なさそうに尋ねる。
 「そうです」と私。

 4月とはいえまだ寒かったので、私はウールのセーターとパンツ、そしてハイソックスを履いていた。ハイソックスは「首吊り自殺をする恐れがある」として、そこで没収された。

 連れていかれたのは個室。
 通路を歩く私を見て、声がかかった。
 「ねぇちゃーん、何して連れてこられたんやぁ?」
 「京大の先生に暴力を振るったんやて〜」
 おぉ〜!!(パチパチと拍手の音)

 「あんたの前にそこ(個室)におったねーちゃんは、ストリップで捕まったんや」
 「風呂上がりには素っ裸で歩いてくれたで〜」
 「期待してるわ〜」(複数の笑い声と拍手)

 うわぁ、なんという課題! 私はちょっとビビった。

 個室には何もなかった。
 トイレ、洗面所、お風呂は共同である。

 まもなく、弁護士さんが面会に来た、と、連れ出された。
 ハイソックスを取り上げられたので、短いソックスが欲しいとお願いした。

 夕食は、丸坊主のキリッとした顔の青年が配達してくれた。
 おもろいおっちゃんが小声で、「あいつは殺人で捕まったんや」と教えてくれた。自分のやったことを認め、裁判でも争わないと言っているらしい。本来なら拘置所に移されるべきだが、空きがないので留め置かれているのだという。


     *     *     *


 夕食後、ちょっとした騒動が、檻の外で始まった。
 夜勤の警察官が出勤してこず、連絡も取れないという。
 ワハハハ。笑っている場合ではないけれど、騒動を見ているのは面白かった。
 結局、機動隊の「若いの」が1人、よこされることになった。


     *     *     *

 就寝時間が近づいたころ、この「若いの」が私の個室前に来た。そして、「今、書類を見せてもらったんやけど」と、思いがけない話を始めた。

 彼は福岡県の出身。高卒で警察官になった。
 私の経歴や「罪状」を見た上で、相談したいことがあるという。
 「お見合いの話があるんやけど、したほうがいいのかどうか迷っていて」

 まさか、留置場の個室で人生相談に乗るとは思ってもいなかった。

 相手は農家の1人娘で、彼を婿養子に迎えたいという意向らしい。農業は継がなくていいし、出世も望んでいないので、堅実な「公務員」のお婿さん候補を探していたところ、人づてに「長男ではない警察官」の彼の存在が浮上したらしい。

 機動隊では出会いがないので、いずれ結婚のために「お見合い」すると思うが、婿養子に行くのはどうなんだろうか、というのが相談内容だった。

 私は持てる知識を総動員した。

 戦後、いわゆる婿養子制度はなくなっていること。なので、彼が「養子」になる場合には、まず、娘さんと結婚して新しい戸籍を作った上で、夫婦揃って養子縁組をする、という形になる(伯父の1人がこういう形で婿養子になっていたので、知識があった)。

 単に姓を継がせたいだけなら、娘さんと結婚するときに、娘さんの姓を選べばいいだけのこと。

 そのあたり、ちゃんと確認したほうがいいよ、と。

 話し終わるか終わらないうちに、また、弁護士さんが面会に来てくれた。
 ソックスを持ってきてくれたと思ったのだが(いや、ソックスは持ってきてくれたのだが)、それ以上の驚きの報告があった。

 私と同時に逮捕された女性職員2人が揃って「妊娠している」と申告し、午後に警察官付き添いのもと、別々の産婦人科医院で診察してもらったところ、それが事実だと判明したので、先ほど、2人とも釈放されたという。

 うぉ〜〜〜!! 青天の霹靂とはこのこと。2人とも付き合っている相手がいることは知っていたが、まさか妊娠していたとは。それも2人揃って!!

 


 

はね奴一代記 京大全臨闘9ー堀川署1

 警察は、複数の車でやってきた。私を連行したあと、家宅捜索をするためである。
 逮捕状を読み上げられ、外に出るように促される。
 ニュースやドラマで見る「手錠」や「腰縄」はなく、私は身一つで車に乗せられた。

 着いたのは、堀川警察署だった。今はもうない。

 署内(事務仕事をしている人たちがいるフロア)を通って、上階へ。
 両手指10本の指紋を取られ、灰色の壁を背に写真を撮られる。
 「スマイル!」と言って笑顔を作ったら「真面目な顔をせい!」と、怒られた(笑)。新聞や雑誌に載る「容疑者の写真」がおしなべて不細工で仏頂面なのは、そういう顔をさせられるからである。

 その後、個室(いわゆる取調室)に連れて行かれる。
 まず、住所、氏名、年齢、職業〜といった身上調書を取られる。
 答えは決まっている。「黙秘しま〜〜す」。

 次に「上申書」とやらを書くように言われる。
 「書きませ〜ん」。
 その後も「黙秘しま〜す」と言い続けたら、そのままの文を書き、ここに署名せいと言う。
 「しませ〜ん」と返すと、「あんたの言葉を書いただけやんか」と言われる。それでも「しませ〜ん」「押印しませ〜ん」を繰り返す。

 警察も、私がそれらの指示に従うとは考えていないので、別に怒鳴られはしない。

 ただ、私がいちいち語尾を「黙秘しま〜す」「〇〇しませ〜ん」と間伸びさせるのには面食らっていたようだ。こうやると実に間抜けに聞こえるし、私もそれを意識してやっていたし。

 そうこうするうちにお昼になった。
 「お、いよいよカツ丼ですね」と言ったら、「贅沢言うな」と返された。
 出てきたのは、お揚げさんの入ったキツネ丼だった。


     *     *     *


 午後から、いわゆる「取り調べ」らしきものが始まった。
 担当するのは2人の刑事。年長は、頭の薄くなりかけた中年で小太りの「人見のおっさん」。若い方は姓を忘れたが、27歳、初めての子が生まれて間もない新米パパで、子どもの愛称は「のんちゃん」。なので私は「のんちゃんのお父さん」と呼んでいた。

 「容疑内容」を聞いて、ちょっと驚いた。

 「暴力等処罰に関する法律違反」に該当するのは下記。
 1)団体交渉中に、教授の肩を人差し指で突いた
 2)ガラス製の吸殻入れを両手に持ち、床にドンと落とした
 3)団交中に、机を教授の方に押し付けた

 3については「そういうことがあったとしても無意識だろう」と感じたが、1、2は記憶があった。私と同時に逮捕された女性のうちの1人の行為である。
 1は「暴力」には当たらないと思う。「ねぇ、〇〇せんせぇ、あの時そう言わはったやないですか〜」とかなんとか言いながら肩をツンツンしただけである。

 2には私もちょっと驚いたが、床にはカーペットが敷き詰められていた(学部長室だった?)し、分厚いガラスの吸殻入れは丈夫で、割れはせず、音もしなかった。

 驚いたのは「暴行」容疑の方である。

 実際に暴行を働いたのは「頬にホクロのある、黒いヘルメットを被った男子学生」だが、その場を仕切っていたのは「私」だったという。「ショートカットにジーパンといういでたちで、会議室の机に腰掛け、学生に指示を出していた」と。
 しかも、日付がなんと、私が夫の父親に会っていた、あの日なんである。

 完全な人違い。

 もともと私はお腹を締め付けられるのが嫌で、ジーパンは1枚も持っていない。ヘアスタイルだってまるで違う。ロングをショートにするのは簡単だが、1か月(「暴行」があったとされる日から「逮捕」までの期間)で、ショートヘアを背中まで伸ばすのは不可能である。

 おまけに当日は、団体交渉には参加せず、退庁時間に大学を出ている。
 なのに一体どこから私の名前が上がったのか?

 私はその場にいなかったのだから、実際の状況がどうだったか、知る由もない。
 警察が言うような暴行があったのかどうかも怪しい。

 団交相手(助教授講師会)の中にゴリゴリの共産党員がいるのは知っていた。
 その男性が私を「主犯」とし、皆に口裏を合わせるよう伝えたとしか思えない。

 もともと助教授・講師は職員なんぞには関心を持っておらず、したがって、顔も名前も分かりはしない。そんな状況で、私を狙い撃ちにしたい奴が、あの女は私だと主張すれば、そう言うならそうなのだろうと思い込んだというのはあり得る。

 とんだ迷惑である。そのせいで私は一生を大きく狂わされたのだから。
 

 私の表情に何かの変化が現れたのかもしれない。
 人見のおっさんが、「大学の職員から、全臨闘をなんとかしてくれと、いっぱいハガキが来とるぞ」と言い出した。

 そうか、そういうことか。
 当時、共産党・民青は、反日共系(彼らが暴力集団=トロツキストと呼ぶも人たち)の活動を抑えるべく、全国的に「告訴・告発」路線をとっていた。共産党系であった京大教職員組合も、この路線に則って、私たちの活動を告発するハガキ作戦をとっていたわけである。

 私が臨職闘争に関わるようになったことを知った組合は、それまで天引きしていた組合費を勝手に凍結し、4か月後、「あなたは組合費を3か月滞納したので、もう組合員ではありません」との、ペラッとした1枚の通知を送ってよこした。それも、この路線のもとに行われたのだろう。いくらなんでも組合が組合員を告発するわけにはいかないだろうしね。


     *     *     *


 ネットを逍遥していたら、当時の雰囲気がよくわかるものを見つけた。
 
 「京都大学学術情報リポジトリ紅 (KURENAI) 」

 紅というのは、京大の前身である第三高等学校の歌「♪紅もゆる丘の花」からとられた名前だろう。

 下記のリンク「京大資料」をクリックし、PDFを開くと、1972年の「京都大学新聞」の縮刷版が出てくる。最終ページには、「Yさん問題」を解説した記事もある。書いたのが誰かは知らないが、多分、土木系教室の関係者だと思う。
 
京大資料

 つづく

 
 
 
 
プロフィール

はね奴

京都市在住。本・雑誌・DVDの企画・制作。エッセイ講座講師。20代から、労働運動と女性運動の重なる領域に生息。フェミとは毛色が異なる。

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