冬来たりなば春遠からじ。
シャンバラのすったもんだが一応の決着をみた後、私は何人かの有志と共に毎月お金を出し合って、フリースペースを運営することにした。名付けて「とおからじ舎」。
麸屋町綾小路。元は旅館だったところで、二階に上がった突き当たりの部屋。窓は麸屋町通に面している。
旅館らしい木のドアを開けると、玄関(踏込み)と靴箱があり、前室の左手にはお風呂(ただし使用できないので、物置になった)、右手にはトイレ、洗面台。ふすまを開けると8〜10畳くらいの部屋(記憶不鮮明)。床の間の横にはテレビと金庫。奥には板張りの広縁という、まんま旅館の客室である。
全臨闘もシャンバラも、すでにあったグループに中途参加する形だった。とおからじ舎は、初めて、私が立ち上げから参加したグループということになる。
メンバーはみな働いていたので、夕方6時以降、交代で、誰かが「当番」をつとめることにした。テレビのない暮らしを続けていた私は、『ザ・ベストテン』見たさに木曜担当を希望して、呆れられつつ承認された。
ここではさまざまな勉強会を開いた。
私が言い出しっぺになったことの1つに、「白書を読む会」があった。感情的に政府や国家の悪口を言うだけではしょうもないので、「労働白書」(当時)や「防衛白書」などを読み込んで、きちんと批判しなければ、という考えからである。この集まりは、シャンバラの最終期にも開いていた。
当時の、不快でもありおかしくもある出来事を、いま思い出した。
労働基準法が改悪されるのを止めさせるべく勉強会を開いていた某日。
反原発の活動を始めたばかりのおばちゃんがやってきて喚いた。
「あなたたちが労基法がどうのこうの言っている間に原発が爆発したら、地球は滅びるのよ〜〜〜っ!!!!」。
いやいや。
京大時代から、私の身近には原子力の危険性に警鐘を鳴らしている頼もしいセンセがいた。市川定夫さんである。アメリカの研究所での「ムラサキツユクサ」を用いた影響研究を通して原子力の危険性を知り、原子力の開発に反対の声をあげ続けていた方である。
そのせいで、京大ではアカデミック・ハラスメント(当時はまだそんな言葉はなかったが)に遭い、助手のままで終わるかと危惧されていたが、埼玉大学から声がかかって助教授として赴任、のちに教授に昇進された。
市川さんが京都を離れる前日、全臨闘に少しだけ関わっていた部長発令の女性と2人、裏寺の市川さん馴染みの居酒屋に連れて行ってもらい、お酒と料理をご馳走になった。
私がフリー編集者になってのち、埼玉大学の教授室にお邪魔して、「環境学」について話をうかがい、記事を書いたこともある。
下記は、原水禁(原水爆禁止日本国民会議)の議長も務めていたことのある市川さんの追悼文である。
市川さん追悼
* * *
私には、「女の感性」や「女の論理」を掲げた運動への違和感がある。
反原発運動には「母である<ただの女>の、地球や子どもを守りたい熱い想い」を高く評価する側面があって、とても苦手だった。
突然押しかけてきたおばちゃんは、そういうタイプの1人だった(名前は知らない)。
* * *
話をとおからじ舎に戻す。
映画の上映会を主催したこともある。
シャンバラ時代には『声泣き叫び』の上映に関わった。
とおからじ舎では『ドイツ青ざめた母』の京都上映を主催した。
どちらも映画監督は女性。
前者はレイプされた女性が回復できずに自殺するという、実話をもとにした作品。
後者は、ナチスドイツ時代にナチス党員にならず戦場に送られた夫と、子育てをしながら戦争の中でもがく妻とのどうにもならないすれ違いを描いた作品。
この映画では、戦場で慰安婦を「抱く」ことを拒んだ夫が兵士仲間に受ける仕打ちや、妻が連合軍兵士に輪姦されるシーンも描かれる。
どちらも、徹頭徹尾、暗い映画である。70歳のいま見返したいとは思わない。
当時の私(たち)は十分に若かったので、暗くて悲惨なばかりの映画を見ても、痛めつけられた感情を<怒り>に転化することができたし、運動につなげることもできた。
監督さんが来日され、私は、京都での上映後、大阪まで電車で送り、大阪上映中は託児の係を担当した。この時、私は自分の英語力のなさを痛感し、YMCAの英語クラスに通い始める。
英語の勉強は、1985年の海外遠征(笑。国際女性年世界会議NGOフォーラムでのワークショップ開催)までずっと続けた。
シャンバラのすったもんだが一応の決着をみた後、私は何人かの有志と共に毎月お金を出し合って、フリースペースを運営することにした。名付けて「とおからじ舎」。
麸屋町綾小路。元は旅館だったところで、二階に上がった突き当たりの部屋。窓は麸屋町通に面している。
旅館らしい木のドアを開けると、玄関(踏込み)と靴箱があり、前室の左手にはお風呂(ただし使用できないので、物置になった)、右手にはトイレ、洗面台。ふすまを開けると8〜10畳くらいの部屋(記憶不鮮明)。床の間の横にはテレビと金庫。奥には板張りの広縁という、まんま旅館の客室である。
全臨闘もシャンバラも、すでにあったグループに中途参加する形だった。とおからじ舎は、初めて、私が立ち上げから参加したグループということになる。
メンバーはみな働いていたので、夕方6時以降、交代で、誰かが「当番」をつとめることにした。テレビのない暮らしを続けていた私は、『ザ・ベストテン』見たさに木曜担当を希望して、呆れられつつ承認された。
ここではさまざまな勉強会を開いた。
私が言い出しっぺになったことの1つに、「白書を読む会」があった。感情的に政府や国家の悪口を言うだけではしょうもないので、「労働白書」(当時)や「防衛白書」などを読み込んで、きちんと批判しなければ、という考えからである。この集まりは、シャンバラの最終期にも開いていた。
当時の、不快でもありおかしくもある出来事を、いま思い出した。
労働基準法が改悪されるのを止めさせるべく勉強会を開いていた某日。
反原発の活動を始めたばかりのおばちゃんがやってきて喚いた。
「あなたたちが労基法がどうのこうの言っている間に原発が爆発したら、地球は滅びるのよ〜〜〜っ!!!!」。
いやいや。
京大時代から、私の身近には原子力の危険性に警鐘を鳴らしている頼もしいセンセがいた。市川定夫さんである。アメリカの研究所での「ムラサキツユクサ」を用いた影響研究を通して原子力の危険性を知り、原子力の開発に反対の声をあげ続けていた方である。
そのせいで、京大ではアカデミック・ハラスメント(当時はまだそんな言葉はなかったが)に遭い、助手のままで終わるかと危惧されていたが、埼玉大学から声がかかって助教授として赴任、のちに教授に昇進された。
市川さんが京都を離れる前日、全臨闘に少しだけ関わっていた部長発令の女性と2人、裏寺の市川さん馴染みの居酒屋に連れて行ってもらい、お酒と料理をご馳走になった。
私がフリー編集者になってのち、埼玉大学の教授室にお邪魔して、「環境学」について話をうかがい、記事を書いたこともある。
下記は、原水禁(原水爆禁止日本国民会議)の議長も務めていたことのある市川さんの追悼文である。
市川さん追悼
* * *
私には、「女の感性」や「女の論理」を掲げた運動への違和感がある。
反原発運動には「母である<ただの女>の、地球や子どもを守りたい熱い想い」を高く評価する側面があって、とても苦手だった。
突然押しかけてきたおばちゃんは、そういうタイプの1人だった(名前は知らない)。
* * *
話をとおからじ舎に戻す。
映画の上映会を主催したこともある。
シャンバラ時代には『声泣き叫び』の上映に関わった。
とおからじ舎では『ドイツ青ざめた母』の京都上映を主催した。
どちらも映画監督は女性。
前者はレイプされた女性が回復できずに自殺するという、実話をもとにした作品。
後者は、ナチスドイツ時代にナチス党員にならず戦場に送られた夫と、子育てをしながら戦争の中でもがく妻とのどうにもならないすれ違いを描いた作品。
この映画では、戦場で慰安婦を「抱く」ことを拒んだ夫が兵士仲間に受ける仕打ちや、妻が連合軍兵士に輪姦されるシーンも描かれる。
どちらも、徹頭徹尾、暗い映画である。70歳のいま見返したいとは思わない。
当時の私(たち)は十分に若かったので、暗くて悲惨なばかりの映画を見ても、痛めつけられた感情を<怒り>に転化することができたし、運動につなげることもできた。
監督さんが来日され、私は、京都での上映後、大阪まで電車で送り、大阪上映中は託児の係を担当した。この時、私は自分の英語力のなさを痛感し、YMCAの英語クラスに通い始める。
英語の勉強は、1985年の海外遠征(笑。国際女性年世界会議NGOフォーラムでのワークショップ開催)までずっと続けた。