2021年12月

はね奴一代記 リブ5ーとおからじ舎1

 冬来たりなば春遠からじ。
 シャンバラのすったもんだが一応の決着をみた後、私は何人かの有志と共に毎月お金を出し合って、フリースペースを運営することにした。名付けて「とおからじ舎」。
 麸屋町綾小路。元は旅館だったところで、二階に上がった突き当たりの部屋。窓は麸屋町通に面している。

 旅館らしい木のドアを開けると、玄関(踏込み)と靴箱があり、前室の左手にはお風呂(ただし使用できないので、物置になった)、右手にはトイレ、洗面台。ふすまを開けると8〜10畳くらいの部屋(記憶不鮮明)。床の間の横にはテレビと金庫。奥には板張りの広縁という、まんま旅館の客室である。

 全臨闘もシャンバラも、すでにあったグループに中途参加する形だった。とおからじ舎は、初めて、私が立ち上げから参加したグループということになる。

 メンバーはみな働いていたので、夕方6時以降、交代で、誰かが「当番」をつとめることにした。テレビのない暮らしを続けていた私は、『ザ・ベストテン』見たさに木曜担当を希望して、呆れられつつ承認された。

 ここではさまざまな勉強会を開いた。

 私が言い出しっぺになったことの1つに、「白書を読む会」があった。感情的に政府や国家の悪口を言うだけではしょうもないので、「労働白書」(当時)や「防衛白書」などを読み込んで、きちんと批判しなければ、という考えからである。この集まりは、シャンバラの最終期にも開いていた。

 当時の、不快でもありおかしくもある出来事を、いま思い出した。

 労働基準法が改悪されるのを止めさせるべく勉強会を開いていた某日。
 反原発の活動を始めたばかりのおばちゃんがやってきて喚いた。
 「あなたたちが労基法がどうのこうの言っている間に原発が爆発したら、地球は滅びるのよ〜〜〜っ!!!!」。

 いやいや。

 京大時代から、私の身近には原子力の危険性に警鐘を鳴らしている頼もしいセンセがいた。市川定夫さんである。アメリカの研究所での「ムラサキツユクサ」を用いた影響研究を通して原子力の危険性を知り、原子力の開発に反対の声をあげ続けていた方である。

 そのせいで、京大ではアカデミック・ハラスメント(当時はまだそんな言葉はなかったが)に遭い、助手のままで終わるかと危惧されていたが、埼玉大学から声がかかって助教授として赴任、のちに教授に昇進された。

 市川さんが京都を離れる前日、全臨闘に少しだけ関わっていた部長発令の女性と2人、裏寺の市川さん馴染みの居酒屋に連れて行ってもらい、お酒と料理をご馳走になった。
 私がフリー編集者になってのち、埼玉大学の教授室にお邪魔して、「環境学」について話をうかがい、記事を書いたこともある。

 下記は、原水禁(原水爆禁止日本国民会議)の議長も務めていたことのある市川さんの追悼文である。
 市川さん追悼

     *     *     *

 私には、「女の感性」や「女の論理」を掲げた運動への違和感がある。
 反原発運動には「母である<ただの女>の、地球や子どもを守りたい熱い想い」を高く評価する側面があって、とても苦手だった。
 突然押しかけてきたおばちゃんは、そういうタイプの1人だった(名前は知らない)。

     *     *     *

 話をとおからじ舎に戻す。

 映画の上映会を主催したこともある。
 シャンバラ時代には『声泣き叫び』の上映に関わった。
 とおからじ舎では『ドイツ青ざめた母』の京都上映を主催した。
 どちらも映画監督は女性。
 前者はレイプされた女性が回復できずに自殺するという、実話をもとにした作品。
 後者は、ナチスドイツ時代にナチス党員にならず戦場に送られた夫と、子育てをしながら戦争の中でもがく妻とのどうにもならないすれ違いを描いた作品。
 この映画では、戦場で慰安婦を「抱く」ことを拒んだ夫が兵士仲間に受ける仕打ちや、妻が連合軍兵士に輪姦されるシーンも描かれる。

 どちらも、徹頭徹尾、暗い映画である。70歳のいま見返したいとは思わない。
 当時の私(たち)は十分に若かったので、暗くて悲惨なばかりの映画を見ても、痛めつけられた感情を<怒り>に転化することができたし、運動につなげることもできた。

 監督さんが来日され、私は、京都での上映後、大阪まで電車で送り、大阪上映中は託児の係を担当した。この時、私は自分の英語力のなさを痛感し、YMCAの英語クラスに通い始める。
 英語の勉強は、1985年の海外遠征(笑。国際女性年世界会議NGOフォーラムでのワークショップ開催)までずっと続けた。

 

 

はね奴一代記 リブ4ー「正義感」?

 3、4人目の女王さまの私への批判には共通性があった。
 いわく、私は「正義感」が強すぎであり、それをそのまま正面に出すのは生き方として「損」である。もっと柔軟に「うまく」世渡りすべきだ、というものだ。
 
 同じことは、全臨闘時代に大学当局との裏取引に応じなかったときにも言われた。

 あのとき「再雇用」されて定年まで勤めた1人は、下鴨の持ち家に住んでいる。

 彼女はバツイチになり、彼女の再婚相手と私の夫が知り合い(元夫も再婚相手も京大卒の「エリート」)だったこともあり、夫が、当時働いていた学校法人に、再婚相手の就職を斡旋した。
 就職当時は低かった国家公務員の給与も、高度経済成長に伴い急上昇した。

 夫婦揃って「高給取り」になった彼女たちは、京都人でもなかなか実現できない「下鴨戸建て暮らし」が可能になった。
 
 仮に私が「裏取引」に応じていれば、安定した収入を得るのみならず、定年退職後も平均以上の年金を受給できていたわけだ。

 けれども私は、その可能性を捨てた自分の選択を肯定している。

 大学当局と「再雇用」の約束(裏取引)を交わしておきながら、表面的には「解雇撤回!」を掲げて「闘っている」風を装う運動に加わっていたとすれば、私は自分で自分を許せなかっただろう。その後の人生も、重苦しいものになったに違いない。

     *     *     *
 
 編集者時代、京大教授を取材に行った折に、思いついて彼女の職場を訪問したことがある。近況を尋ねたところ、離婚した元夫との子(逮捕されたときにお腹の中にいた子)がグレて高校を中退し、プータローになっているという。
 私が面白がって「〇〇ちゃん(本人)の育て方が間違ってたんや!」と意地悪く言うと、彼女は真顔で「そうやろか」と返した。本気で悩んでいたのに茶化して悪い! と詫びつつ、どうしても私は笑ってしまった。

 彼女は保母(当時の呼称)資格を持っており、まだ1、2歳のわがまま息子を私が叱ったりすると、「その方法は間違っている」と、私を非難していた。それでなくとも二言目には「子どものいないアンタには分からん」と否定されていたのに、めんどくさいこと、この上なかった。
 彼女の育児方法は、「子どもと同じ目線に立つ」と言いつつ、過保護で甘やかしすぎだったと、70年代当時も彼女と再会したときも、私の考えは変わらない。

 袂を分かって以降の事情は知らないが、思春期にさしかかった彼女の息子が、母親の再婚相手や、その後生まれた「妹」たちとの関係をめぐって悩んだり困ったりすることは、十分あり得る。
 実父も再婚しているため、彼は適切な相談相手を見つけられず、身の置き所を失ってグレてしまったのだろう。同情する。

     *     *     *

 それにしても私の「正義感」は、マイナスの結果につながってばかりだ(苦笑)。

 小学6年次の担任(女性)は、成績優秀でリーダータイプの私を、何かとえこひいきした。それが目に余るようになったので、担任と2人になる機会をとらえて、「えこひいきは良くないと思います」と、正面切って意見した。彼女は「裏切られた」という表情になり、それ以来、私を「敵視」するようになった。

 その後の家庭科の時間。

 その日は何度か練習してきた「ミシン」の仕上げ日で、生徒は「まっすぐ縫う」という課題に取り組み、制作物を提出することになっていた。
 担任は、「アンタが監督して、提出物をまとめて職員室に持ってきなさい」と指示すると、家庭科室を去った。

 先生がいなくなると、生徒たちの数人が、縫い目が歪まないよう、足踏みではなく、はずみ車を手で動かして、課題を仕上げた。すると他の生徒も次々にそれを真似する。時間がかかって仕方がない。私がいくら「足踏みで運針してください」と言っても、学級委員の注意なんて誰も聞かない。

 結局、時間切れになり、私は最後に自分の課題を数十秒で(足踏みで)縫って(当然、歪みもある)、職員室に向かった。

 「遅かったやんね」と、担任の冷たい声。
 その学期の家庭科の成績は屈辱の「3」だった。ペーパーテストは満点なので、ミシン課題の結果だとしか思えない。

 指導放棄し、現場の様子も知らないくせに、責任を負った私にはこういう扱いをするのね、と、とても悔しかったが、対抗措置を思いつかなかった。

 この体験があって、中学に入って書道の教師に「書道部に入らなければ通知表に5はやらん」と言われたときには、「泣き寝入りはしないぞ」と、すぐさま告発投書に踏み切ったのだった(いま思い出した)。

 家庭科のミシン事故はとても多いようで、職場放棄した担任は、告発すれば大問題になっていたはずだ。
 私は神経を尖らせて複数のミシンに目を配り(1人1台のミシンはなかった)、安全に気を付けるよう、しつこく繰り返した。もしも事故が起きていたらどうなっていたか、想像するとゾッとする。

     *     *     *

 シャンバラではずっと居心地が悪かったが、それでも居続けたのは、藤枝さんが私の活動を評価してくれていたからだ。
 ここでは、はっきり、「はねこはえこひいきされている」と、お仲間に言われた。

 藤枝さんは、嵐山に瀟洒なマンションを持っておられた。ときには私たちを招いて得意の料理を振る舞ってくれる。食後は、クローゼットに並ぶ衣装を取っ替え引っ替えしてのファッションショー(笑)。彼女はとてもセンスの良いオシャレさんだった。

 藤枝さんが国連の国際会議でインドに出張された際に買ってこられた、白の綿生地に美しい刺繍の施されたショートクルタと、カラフルなシルクパンツとの上下セットは、私にとても似合った。
 「持って帰りなさいよ」と藤枝さん。
 しかし「えこひいき」コールが起きたため、私はクルタを他の人に譲り、パンツだけをいただいた。今も大切に履いている。
 えこひいきへの反発は、私にも直接向かってくる。
 それも、居心地の悪さの一因だった。

 下の写真が、いただいたパンツである。超がつくほどに派手だが、実際に身につけるとすんなり馴染む。私の内面と響き合っているのかもしれない(はははは)。
 IMG_0451

     *     *     *

 がんこな正義感の持ち主は、「利用」されることが多い。

 小学生時代には、女子の希望や男子批判(掃除の時間にチャンバラごっこばかりして困るというような、よくある話)を「学級会の議題にして」と私に依頼し、私が「悪者」になる形で女子の希望を叶える、といったようなことが多々あった。

 中学時代は、私と友達になりなさいと言う母親の手前、授業参観などの日は私と仲良しのふりをするが、そうでないときにはコソコソと「陰口」を叩く女子が何人もいた。そして、そういう子たちに限って、「誰々さんが悪口を言っている」と、私にチクリにくるのである。
 心の中では、私も彼女たちも、お互いを嫌い合っていたと思う。

 高校3年次はもっとあっさりと、同級生女子が談合して(笑)学級委員という雑用係を私に押し付けた。ただこのときは、私も「いいよ」と引き受けたし、相棒(たかし君)とは「夫婦漫才のよう」だと笑われながら、楽しく仕事をこなした。

     *     *     *

 私自身には、「正義感」によって疎まれるのは「やむを得ないこと」という諦念のようなものが、ずっとあった。

 長い間、私の「憧れの女性」だったのは、「蟻の町のマリア」と呼ばれた北原怜子さんである。

 我が家にテレビがやってきて間もないころ、彼女の半生がテレビで紹介された。たぶん生放送だったような気がする。

 いくつもの博士号を持つ大学教授の娘として生まれ育った彼女が、バタヤ部落(廃品回収を生業とする人たちの住む場所)の仲間と共にリヤカーを引いて廃品を集めて回る。彼女が歩きながら汗を拭くシーンまで、くっきりと覚えている。

 彼女のような生き方がしたいと10代前半で考えた私の人生が「貧乏」なのは、そのときに決まったようなものだ(笑)。中学時代、障害者施設のボランティアに自ら進んで参加した動機にも、彼女の存在がある。

 ただ、求道的な彼女とは異なり、ミーハーで俗人の私は、「道を極める」ことなく、右往左往してきた。ちょっとだらしない(笑)。

 当時の思いが残っている部分といえば、人生の最晩年を東九条で過ごしたいと考えていることぐらいか。
 40番地と呼ばれていた地域には、在日コリアンの人々が多く住んでおり、私は何度か、ボランティア活動をしている京大生と一緒に訪れたことがある。
 当時の私はボーイッシュなショートヘアで、ワルな小学生女子に「あんた、男? 女?」とからかわれたりして(笑)、とても楽しんだ。
 私はそこに「蟻の町」を重ねていたのだと思う。

 70歳で仕事から離れるのは決まっていたので、その後は東九条に住むべく、市営住宅に何度も応募しているが、ずっと落選している。諦めてはいないけれど。










はね奴一代記 リブ3ー女王さま? 2

 70年の人生の中で、「女王さま」と呼ぶ女性は4人いた。プチ女王さまを加えると7、8人にはなるだろうか。
 過去形なのは、すでにその誰ともお付き合いしていないからだ。

 最初の女王さまは、小学6年のときに私を支配下に置こうとした同級生である。
 中学時代は部活や生徒会で一緒だったが、私の方に、彼女と友達付き合いしたいという欲求がなかったので、高校以降はあえて関わらないようにしてきた。

 それからかなりの月日が経ち、彼女のことなど思い出しもしなかったころ、思いがけず、私の姉から苦情が入った。
 
 姉が銀行に就職した1960年代末、第一次ボーリングムームが始まった。あちこちの職場で定期的にボーリング・イベントが開催されていた。

 あるとき、大牟田市内の銀行対抗ボーリング大会が開催され、そこで姉は1人の男性に声をかけられる。小学校時代の同級生だった。
 そこから交際が始まり、2人は婚約。ライバル銀行員同士の結婚は当然不可能で、当たり前のように姉は「寿退社」した。

 結婚して何年か経ったころ、1人目の女王さまから突然、姉に電話があった。
 1人目さんの結婚相手が、姉の夫の銀行に後輩として入行しているとか。

 そこで義兄と私との繋がりを知り、当初は私の近況を教えてほしいと言ってくるにとどまっていたが、途中から、銀行内の人間関係や昇進情報など、話す必要もないことを何かと知りたがり、連絡してくるようになって、迷惑しているという。

 姉は、私の友人だと思ってきついことも言わずに我慢していたようだが、これ以上相手をするのは嫌だと言ってきた。
 私も付き合っていないので関係を切って、と、返答した。姉にまで迷惑をかけてしまった。

 女王さまは自己中なので、迷惑をかけている相手への想像力に欠ける。

     *     *     *

 2人目の女王さまがSさん。
 彼女は、パリのOさんに最終的に別れを告げられ、家を出るように言われて帰国したが、またもや私に、彼との間を取り持つように言ってきた。さすがに交際復活はあり得ないと理解していたようだが、代わりに、彼の故郷の美味しいお茶を輸入する事業を起こして、彼とのつながりを保ちたいという。
 ついては「あんたが会社を作って」と。

 どうして私がそこまでしなければならない?!
 「あんた、あのお茶が日本に輸入されたらいいのに、と言うてたやん」
 「言うたけど、自分で会社を作るなんて話してないよ」
 「だから会社を作ってよ。そうしないとOとの関係が完全に切れてしまうから」
 「それはあんたの都合で、私には関係ない!」

 大牟田と京都の長距離電話で言い合っているうちに、私はもう限界だと感じ、彼女に、今後一切付き合わないと宣言した。

     *     *     *

 3人目と4人目の女王さまは、どちらも仕事関係者なので、詳細は控える。

 2人に共通しているのは、私を女王さまの「イエス・ウーマン」に仕立ててそばに置き、自分の言いなりにさせることだった。

 彼女たちもまた、私の人間性を見誤ったのだろう。

 女王さまだけあって、2人とも独善的かつ強権的な面を持っており、仕事上で問題発言や行動があった。いま風の表現をすれば、ブラック・オーナー、パワハラ運営者と言えるだろう。

 彼女たちは私の「側面支援」を当然視していたのだろうが、正義感の塊である私は、真正面から彼女たちを批判する。

 すると女王さまは、「飼い犬に手を噛まれた主」のような顔をして、私の「裏切り」に怒りの表情を見せる。
 いや、最初っからあなた(方)に飼われているつもりはないから、私。

 しばらく経つとあちこちから、「〇〇さんが、あなたのことをこんなふうに言ってるよ」との声が届く。私の悪口を言いふらしているのだ。

 しかしどちらも、正面切って私に意見したり怒ったりはしない。私の指摘した、「己の支配欲、権力欲に基づく言動の問題」に反論できないからだ。

 陰口を叩く女は醜く情けない。

      *     *     *

 私は女王さまの言いなりなんかにはならないので、不快ではあるけれど、自分に対して不実ではない。

 それにしても、どうしてこう何度も女王さまに「家来にできる奴」と判断されて、利用されるのか。私の何が、彼女たちを引き寄せるのか??

     *     *     *

 私にとって、女王さま問題というのはなかなかの難問で、スッキリした答えが出てこない。

 相手が痴漢なら、「バーカ! 女の外見に関する洞察力が足りなかったのねー」で済むが、ある程度の「友人」としての期間があったにも関わらず、私を「召使い」「下僕」「言いなり女」にできると考えるのはなぜか???

 謎である。
 

 

 

 

 
 

はね奴一代記 リブ3ー女王さま? 1

 この日記の中で私は、高校時代の友人Sさんを何度も「女王さま」と呼んできた。
 そう名付けるまでには、いくつかの出来事があった。

 たしか、高校2年のときだった。
 その日は彼女の部活(弓道部)が休みだったので、放課後、教室でおしゃべりしていたのだが、そこに、別の高校に通う男子が訪ねてきた。毎度お馴染み(笑)の交際申し込みである。

 Sさんは、女優の水野久美さんに似ていた。昭和時代の正統派美人である。
 彼女はその日、しみじみと私に言った。
 「私に交際を申し込む人は私の外見ばかり見ている。あんたは、中身で男の友達と付き合えるけん、羨ましか〜」

 別の日。高校生向け週刊誌(『ティーンルック』だったと思う)に、タイガースメンバーの「憧れの人」が紹介されていた。

 私たち2人が好きだったタローは、憧れの人を「吉永小百合さん」と答えていた。
 するとSさんは、「私、吉永小百合に似ていると言われたこともあるから、可能性はあるよね?!」と、真顔で私に答えを求めてきた。

 ん? 何の可能性?
 「結婚の」
 答えようがなかった。

 私の「好き」と彼女の「好き」は、内容がまるで違っていたようだ。

 私はタローの醸す雰囲気が好きだったが、結婚はもとより、恋愛の対象としても想像したことはなかった。彼らはあくまでも「芸能界」という別世界の人だから。

 外見に自信があるだけで、少女はここまで夢を見ることができるのか?!

 いくら美人でも、方言丸出しで洗練もされていない九州のイモ娘が、東京で大勢の女子に囲まれてワーキャー騒がれている男性スターに見初められるなんて、少女漫画のような創作物でしかあり得ない話だと思うのだが。

 私が黙っていると、「あんたには考えられんやろうけど」と、彼女は続けた。
 笑。

     *     *     *


 私は交際を求められたことはないが(ははは)、痴漢被害には何度も遭ってきた。
 なんでやろうと口にすると、Sさんは、理由はわかりきっているとばかりに、こう言った。
 「そら、あんたが、痴漢をしても何もできないおとなしい子に見えるからやろ。
 私も、高校に入ってクラスで初めて見たとき、あんたなら子分にできると思って声をかけたのに、性格は逆やもんねー」。

 青天の霹靂。予想だにしない意見だった。

 この日記を読んでくれている皆さんならお分かりの通り、私は物心ついたころから自分の意志をはっきり持ち、それを主張する「可愛げのないガキ娘」だった。納得できないことには反撃し、やられたらキッチリやり返す。
 したがって、私に痴漢を働いた男は、2人の例外を除いてはすべて、私の反撃にあっている。警察(交番)に突き出したこともある。

 例外その1:自転車痴漢
 被害にあったのは、丸太町東大路角の熊野神社前を北上し、京大病院の横を通る歩道の上。夕方6時ごろ、歩道を南下してきた自転車男に胸を掴まれた。振り返って怒鳴ったが、追いつくことは難しかった。それから間もなくして、京大生の痴漢が捕まった。同一人物かもしれない。

 例外その2:京阪最終便に乗る酔っ払い男
 南座の近くでバイトをしていたころ、四条大橋の上で、酔っ払い男に胸を掴まれた。追いかけてなんとかしたかったが、私の乗る終電(阪急桂行き)の時間が迫っていたので、諦めて駅に急いだ。

 こちらは今後も同じ被害に遭うと思えたので、バイトの日には、分厚くて重い専門書を何冊か、ファスナー付きの頑丈なサブバッグに詰めて出かけた。

 予感的中。その後も京阪電鉄大阪方面行きの最終電車に乗る男に何度も痴漢されかけたが、その度に、腕に抱えた重い本のバッグを投げつけてやった。思わぬ反撃に面食らった男は、逃げるように京阪乗り場に急いだ。ざまあごらん遊ばせ(笑)。

     *     *     *

 Sさんが、私なら「子分にできると思って」声をかけたとは驚きだった。

 Sさんと話すようになったのは、入学後、数日目のこと。YKに「ブスは黙れ」と言われるより前なので、気持ちはとても元気だった。同じ中学から「特殊クラス」に入った女子が私だけだったので、話し相手はいなかったけれど。

 黙っている私は、「他人に嫌なことをされても反撃できずに我慢する」タイプに見えるらしいと、彼女の言葉で初めて知った。

 『男が痴漢になる理由』(イースト・プレス発行)には、痴漢の“ターゲット選び”について、次のような解説がある。

 …………………引用開始……………………
 どんな女性に痴漢をするかによって、逮捕のリスクが高くもなれば低くもなります。彼らが狙う女性を端的にいうなら、「被害を訴え出そうにない」女性となります。(p113)
           (中略)
 派手目で勝ち気そうで、頭がよく仕事ができそうな女性を痴漢は確実に敬遠します。年齢はそれほど考慮されないようです。若い女性にこだわる痴漢もいますが、それよりも優先されるのが「気が弱そう」「おとなしそう」といった特徴です。(p117)
           (中略)
 これは、彼らの言を借りると「何をしても逆らわない女性」「黙って自分達に支配されて横暴を叶えてくれる女性」となります。「幼い感じの女性」「眼力のない女性」と表現する者もいます。いずれにしろ、自分達に対抗すべき力を持たないように見えることがポイントです。(p117)
 …………………引用終了……………………

 Sさんは、痴漢の心理と自分の「支配欲」との類似性を的確に読み取っていたようだ。すごい。

 「子分」の対語は「親分」だろうが、Sさんには「親分肌」でイメージするような「面倒見の良さ」「懐の大きさ」「頼り甲斐」などは皆無なので(苦笑)、私は彼女を勝手に「女王さま」と呼ぶことにした。

 女王さまが「子分」ならぬ「召使い」に求めるのは、女王さまの思し召しに沿うべく働くこと。私がSさんの「自分が振った男との復縁願望」に従って何度も間に立ったことなど、彼女にすれば「下僕ならやって当然」だったのだろうと思う。

 こういう人だから、私が結婚した時にはかなり悔しかったようだ。
 その後、癌闘病中の彼女のお父さんを見舞いに行ったときには、「夫婦2人で写っている写真を持ってくるように」と、Sさんに指示されていた。

 写真を見せるのはお父さんではなく、カカア殿下のお母さんだった。
 そして、お母さん曰く、「あんた負けとるやないの!」

 は?
 「あんたより旦那さんの方がいい男やんね!」
 え?
 夫婦は美醜を競うものなの?

     *     *     *

 同じようなセリフを、15年後ぐらい後にまた聞くことになった。お尻が大きいのは格好悪いと考える、3代目女王さま(笑)である。

 彼女(Nさんとする)の家に泊まることになっていた日、急に、宿泊出張の仕事がNさんに入った。当時彼女は妻子ありの男性と「同棲」していたが、私なら、彼が興味を持つはずがないので大丈夫、心配していないわと言って、出かけた。

 私がパリのSさんの恋人宅にお世話になったときのSさんのセリフと瓜2つである。

 夜、お風呂の好きな猫ちゃんと一緒に入浴中(猫は、湯船の蓋や縁で遊んでいる)、いきなりドアが開いて、同棲相手が覗き込んだ。かなりお酒が入っている。
 私は微動だにせず(笑)、顔だけ男に向けて、猫が怖がらない程度の声で男性を怒鳴りつけて追い出した。

 風呂上がりには、件の男性は酔い潰れて眠っていた。
 この話は、Nさんには伝えていない。彼女のプライドが傷つくだけで、何もいいことは起こらないであろうから。

 そのNさんが京都に来ることがあって、一晩、宿を提供した。
 部屋に入るなり、「あら〜、いいところに住んでるじゃないの。もっと汚い狭い家かと思っていたわ」
 ちなみに、住宅公団(当時)の分譲タイプの賃貸住宅である(笑。分譲マンションとして建てたが、申し込みが少なすぎたので、賃貸に転用した建物という意味)。

 夫と顔を会わすなり、「え〜、いい男じゃないの! はねこちゃんよりいい男よ!」

 女王さま方にすれば、「召使は女王さまより貧しく見すぼらしい家に住み、風采の上がらない男と暮らす」のが当然らしい。
 Sさん、Nさんの、私に対する向かい方は相似系だった。

 
 

 

 
プロフィール

はね奴

京都市在住。本・雑誌・DVDの企画・制作。エッセイ講座講師。20代から、労働運動と女性運動の重なる領域に生息。フェミとは毛色が異なる。

コメント&返信
  • ライブドアブログ