私のイメージにあった難民キャンプは、樹木の一本も見当たらない、土埃の舞う広地にずらりと並ぶテントだった。しかし………。
信原さんの住まうダマスカスのキャンプはコンクリート造りの3階建てだった。コンクリートの中に鉄筋が入っているかどうかは分からない。
信原さんはその一室で、ご飯を炊き、魚を焼き、味噌汁を作っていた。
はぁ〜。イメージ総崩れ!(笑)
数時間話をうかがい、3、4階建の並ぶキャンプ内を案内してもらった。その間しょっちゅう、町の人から声をかけられる。話の内容はわからないが、彼女がとても信頼され、大切に思われていることは、ビンビン伝わってくる。
キャンプの人々は、「日本人の友人(といっても初対面だが。笑)」の私にも、心を込めて挨拶してくれる。
信原さん、肩に力がまったく入っていない。変な表現だが、「あっさりと生きている」というイメージ。それは、ナイロビでボランティアをするチヨちゃんにも感じたことだった。
ボランティアというものは、肩肘を張ったり「情熱に燃えて」やったりするものではない。それが当人にとって「当たり前」のことだから、日常を淡々とこなしていくだけ。私はそう思い知った。
「信仰」と「医療の専門家」と、背景は違うけれど、自分の持っている「芯」に沿った生き方を貫いているのは、2人とも同じ。かっこいいなぁと、私は素直に共感した。
では私は何をすれば? 私の芯とは?
この問題が、帰国後の私を悩ませることになる。
* * *
現在、ニュースで見聞きするのは、シリア当局による難民キャンプの封鎖。数十万の人々が飢えているという。権力というものは、平然と残酷なことをする。
* * *
目的を達成したあとは、再びパリへ。
何が驚いたって、寒いのだ。とにかく寒い。春〜秋の旅を想定して、ウールのカーディガン(これも手編み。あのころの私は手編みに凝っていた)は持参していたが、それでは寒さに耐えられない。
私はギャラリー・ラファイエットに駆け込み、デニムのロングコートを購入した。
パリには他に、ボン・マルシェやプランタンなどの百貨店もあり、ミーハーな私は当然、探索に出かけていたが、自分の好みに合うのはギャラリー・ラファイエットだった。
帰国の準備を始めた。
パキスタン航空のオープンチケットはあったが、往路のあの大変さを思い起こすと、もう乗りたくない。このチケットはあっさり捨てることにし、新しくチケットを買い直した。アエロフロートである。
当時はまだソ連時代。アエロフロートの機長は軍人でもあり、操縦がすこぶるうまいと、風の噂で聞いていた。
本当だった。成田に着陸した時の静かさといったら! 衝撃はほとんどなく、滑らかにすーっと着陸した。
私は18歳のころからスカイメイトを使ってよく飛行機に乗ってきた。日本航空のパイロットも下手だとは思わないが、それに勝るスムーズさだった。ロシアになってからはどうだか知らないが、帰路の選択は間違っていなかった。
* * *
夫に送ってもらったお金は合計100万円ぐらいになった。
当時、大学院博士後期課程を終え(オーバードクターの1年を経て)、予備校講師になっていた夫は、けっこう高収入だった。
当時のオープンチケットの値段やロンドンーナイロビの往復便の値段、アエロフロートの片道運賃がどれくらいだったか、資料がないので(断捨離したときに処分してしまった)不確かだが、たぶん数十万円はかかっていると思う。
仮に航空運賃の総計が30万円として、残りを6か月で割ると、1か月あたりの経費は11〜12万円。
当初の目論見通り1日5千円の旅を半年続けたとしたら90万円はかかることになる。日本にいても必要経費(食費、水光熱費、消耗品購入費、移動費など)は必要なのだから、私は結構いい「貧乏旅行」ができたのではないかと思う。
* * *
そして、帰国した翌年もまた、夫に大盤振る舞いしてもらい、約1か月の中国旅行に出かけることになった。
この次は、一度リブから離れて、愉快な中国旅行の話を書く。
信原さんの住まうダマスカスのキャンプはコンクリート造りの3階建てだった。コンクリートの中に鉄筋が入っているかどうかは分からない。
信原さんはその一室で、ご飯を炊き、魚を焼き、味噌汁を作っていた。
はぁ〜。イメージ総崩れ!(笑)
数時間話をうかがい、3、4階建の並ぶキャンプ内を案内してもらった。その間しょっちゅう、町の人から声をかけられる。話の内容はわからないが、彼女がとても信頼され、大切に思われていることは、ビンビン伝わってくる。
キャンプの人々は、「日本人の友人(といっても初対面だが。笑)」の私にも、心を込めて挨拶してくれる。
信原さん、肩に力がまったく入っていない。変な表現だが、「あっさりと生きている」というイメージ。それは、ナイロビでボランティアをするチヨちゃんにも感じたことだった。
ボランティアというものは、肩肘を張ったり「情熱に燃えて」やったりするものではない。それが当人にとって「当たり前」のことだから、日常を淡々とこなしていくだけ。私はそう思い知った。
「信仰」と「医療の専門家」と、背景は違うけれど、自分の持っている「芯」に沿った生き方を貫いているのは、2人とも同じ。かっこいいなぁと、私は素直に共感した。
では私は何をすれば? 私の芯とは?
この問題が、帰国後の私を悩ませることになる。
* * *
現在、ニュースで見聞きするのは、シリア当局による難民キャンプの封鎖。数十万の人々が飢えているという。権力というものは、平然と残酷なことをする。
* * *
目的を達成したあとは、再びパリへ。
何が驚いたって、寒いのだ。とにかく寒い。春〜秋の旅を想定して、ウールのカーディガン(これも手編み。あのころの私は手編みに凝っていた)は持参していたが、それでは寒さに耐えられない。
私はギャラリー・ラファイエットに駆け込み、デニムのロングコートを購入した。
パリには他に、ボン・マルシェやプランタンなどの百貨店もあり、ミーハーな私は当然、探索に出かけていたが、自分の好みに合うのはギャラリー・ラファイエットだった。
帰国の準備を始めた。
パキスタン航空のオープンチケットはあったが、往路のあの大変さを思い起こすと、もう乗りたくない。このチケットはあっさり捨てることにし、新しくチケットを買い直した。アエロフロートである。
当時はまだソ連時代。アエロフロートの機長は軍人でもあり、操縦がすこぶるうまいと、風の噂で聞いていた。
本当だった。成田に着陸した時の静かさといったら! 衝撃はほとんどなく、滑らかにすーっと着陸した。
私は18歳のころからスカイメイトを使ってよく飛行機に乗ってきた。日本航空のパイロットも下手だとは思わないが、それに勝るスムーズさだった。ロシアになってからはどうだか知らないが、帰路の選択は間違っていなかった。
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夫に送ってもらったお金は合計100万円ぐらいになった。
当時、大学院博士後期課程を終え(オーバードクターの1年を経て)、予備校講師になっていた夫は、けっこう高収入だった。
当時のオープンチケットの値段やロンドンーナイロビの往復便の値段、アエロフロートの片道運賃がどれくらいだったか、資料がないので(断捨離したときに処分してしまった)不確かだが、たぶん数十万円はかかっていると思う。
仮に航空運賃の総計が30万円として、残りを6か月で割ると、1か月あたりの経費は11〜12万円。
当初の目論見通り1日5千円の旅を半年続けたとしたら90万円はかかることになる。日本にいても必要経費(食費、水光熱費、消耗品購入費、移動費など)は必要なのだから、私は結構いい「貧乏旅行」ができたのではないかと思う。
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そして、帰国した翌年もまた、夫に大盤振る舞いしてもらい、約1か月の中国旅行に出かけることになった。
この次は、一度リブから離れて、愉快な中国旅行の話を書く。