2022年01月

はね奴一代記 リブ22ーとおからじ舎18ー1人旅6

 私のイメージにあった難民キャンプは、樹木の一本も見当たらない、土埃の舞う広地にずらりと並ぶテントだった。しかし………。

 信原さんの住まうダマスカスのキャンプはコンクリート造りの3階建てだった。コンクリートの中に鉄筋が入っているかどうかは分からない。

 信原さんはその一室で、ご飯を炊き、魚を焼き、味噌汁を作っていた。
 はぁ〜。イメージ総崩れ!(笑)

 数時間話をうかがい、3、4階建の並ぶキャンプ内を案内してもらった。その間しょっちゅう、町の人から声をかけられる。話の内容はわからないが、彼女がとても信頼され、大切に思われていることは、ビンビン伝わってくる。
 キャンプの人々は、「日本人の友人(といっても初対面だが。笑)」の私にも、心を込めて挨拶してくれる。

 信原さん、肩に力がまったく入っていない。変な表現だが、「あっさりと生きている」というイメージ。それは、ナイロビでボランティアをするチヨちゃんにも感じたことだった。

 ボランティアというものは、肩肘を張ったり「情熱に燃えて」やったりするものではない。それが当人にとって「当たり前」のことだから、日常を淡々とこなしていくだけ。私はそう思い知った。

 「信仰」と「医療の専門家」と、背景は違うけれど、自分の持っている「芯」に沿った生き方を貫いているのは、2人とも同じ。かっこいいなぁと、私は素直に共感した。

 では私は何をすれば? 私の芯とは?
 この問題が、帰国後の私を悩ませることになる。

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 現在、ニュースで見聞きするのは、シリア当局による難民キャンプの封鎖。数十万の人々が飢えているという。権力というものは、平然と残酷なことをする。

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 目的を達成したあとは、再びパリへ。

 何が驚いたって、寒いのだ。とにかく寒い。春〜秋の旅を想定して、ウールのカーディガン(これも手編み。あのころの私は手編みに凝っていた)は持参していたが、それでは寒さに耐えられない。

 私はギャラリー・ラファイエットに駆け込み、デニムのロングコートを購入した。

 パリには他に、ボン・マルシェやプランタンなどの百貨店もあり、ミーハーな私は当然、探索に出かけていたが、自分の好みに合うのはギャラリー・ラファイエットだった。

 帰国の準備を始めた。
 パキスタン航空のオープンチケットはあったが、往路のあの大変さを思い起こすと、もう乗りたくない。このチケットはあっさり捨てることにし、新しくチケットを買い直した。アエロフロートである。

 当時はまだソ連時代。アエロフロートの機長は軍人でもあり、操縦がすこぶるうまいと、風の噂で聞いていた。
 本当だった。成田に着陸した時の静かさといったら! 衝撃はほとんどなく、滑らかにすーっと着陸した。

 私は18歳のころからスカイメイトを使ってよく飛行機に乗ってきた。日本航空のパイロットも下手だとは思わないが、それに勝るスムーズさだった。ロシアになってからはどうだか知らないが、帰路の選択は間違っていなかった。

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 夫に送ってもらったお金は合計100万円ぐらいになった。
 当時、大学院博士後期課程を終え(オーバードクターの1年を経て)、予備校講師になっていた夫は、けっこう高収入だった。

 当時のオープンチケットの値段やロンドンーナイロビの往復便の値段、アエロフロートの片道運賃がどれくらいだったか、資料がないので(断捨離したときに処分してしまった)不確かだが、たぶん数十万円はかかっていると思う。

 仮に航空運賃の総計が30万円として、残りを6か月で割ると、1か月あたりの経費は11〜12万円。
 当初の目論見通り1日5千円の旅を半年続けたとしたら90万円はかかることになる。日本にいても必要経費(食費、水光熱費、消耗品購入費、移動費など)は必要なのだから、私は結構いい「貧乏旅行」ができたのではないかと思う。

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 そして、帰国した翌年もまた、夫に大盤振る舞いしてもらい、約1か月の中国旅行に出かけることになった。

 この次は、一度リブから離れて、愉快な中国旅行の話を書く。








 

 

 

はね奴一代記 リブ21ーとおからじ舎17ー1人旅5

 外務省の海外安全ホームページを見ると、今、シリア全土は危険度レベル4。渡航中止、避難勧告が出ている。

 しかし、1985年当時のダマスカス(シリアの首都)は、まだまだ呑気だった。

 街中で、日本人の新聞記者のおじさんと知り合いになったのだが、彼はなんと、「北島三郎シリア公演」の取材を終えたばかりだという。

 記者さんと遭遇したのは、セミラミスホテル1階のカフェ。ここではビールが飲めたので、私は暑さ対策も兼ねて、ほぼ毎日、ここに通い、ランチをとった。

 記者さんによれば、サブちゃんもこのホテルに滞在していたという。
 1週間早く到着していれば、私はサブちゃんのシリア公演に参戦という超貴重な体験ができたかもしれなかった。残念!(笑)


 私が最初に泊まったホテルは外国人も滞在可能だったが、イスラム教シーア派の指導者として著名な「ホメイニ師」が宿泊することになったとかで、全員が、別のホテルに移るよう求められた(実際には強制退去である)。

 私はインターナショナルホテルというところに移った。どちらのホテルも今はない。



 当時、現地の難民キャンプ事務所のようなところで申請すれば、信原さんに会える可能性があるとのことだった。返事が来るまで、私は街中を散策した。

経験1:痴漢に遭遇
 ダマスカスでは、真っ昼間に何度か痴漢にあった。街中でやたらと身体をくっつけてくる。ひどい男は股間に手を入れてくる。

 この件についての記者さんの見解に驚いた。

 中東では、フィリピンから「売春婦」が大量に流入して社会問題になっている、という。
 アラブの男性には日本人とフィリピン人の区別はつかないだろうから、痴漢を働いた連中は売春婦だと思って触ってきたのだろう、と。

 もっとも、彼女たちは単独で行動することはなく、ミニバスのようなものに乗って集団で移動するそうだが。

 一時期、日本にも多くの「ジャパゆきさん」が流入していたが、アラブにまで遠征していたとは!
 

経験2:高級住宅街
 街中を歩く地元女性はほぼ全員、ムスリムの衣装(ナイロビではブイブイと呼んでいた。いわゆるチャドル)を身につけている。

 ところが、諸外国の大使館やヨーロッパ発ブランドのブティックなどが並ぶ高級住宅街に行くと、若い女性が軽やかなワンピースに身を包んで通りを闊歩しているではないの!

 今ではもう見ることもできない光景だろうが。



 この地域では、ボーイスカウトの制服姿の男子一行に「ジャパニーズ!」と取り囲まれたこともあった。彼らは英語を話すのだ!

 少年たちは私の腕時計を指して、口々に「SEIKO?」「SEIKO?」と尋ねてくる。違うと答えると、「You are poor!!」「poor!」「poor!」とからかってくる。面白がって私も日本語で「悪かったわねー、ビンボーで」と返すと、また「ジャパニーズ!(今度は日本語という意味だろう)」「ジャパニーズ!」と大はしゃぎする。

 いや〜、なかなか楽しかった。好奇心をまっすぐ向けてくる子どもたちは、どの国でも同じだね。


 そういえば最近、市バスの中で、手すりをつかんでよっこらしょと立ち上がる私を見て、年中さんぐらいの女の子が「どうして普通に歩かないの?」と口にしたら、隣の母親が、無言で娘の膝を叩いて話を止めようとしたことがあった。

 私は少女の目をしっかり見て、「おばあちゃんになって腰が痛いから、よっこらしょになるのよ」と説明し、「バイバイ」と手を振った。少女も納得した表情で、「バイバイ!」と小さな手を振りかえしてくれた。

 こういう疑問を抑えちゃいかんよ、おかーさん!(笑)


 1週間ほど待っただろうか。信原さんからホテルに連絡が届いた。



 
 

 

はね奴一代記 リブ20ーとおからじ舎16ー1人旅4

 ハンガリーは、当時、東欧諸国の中で最も強く資本主義を志向している社会主義国だった。

 ブダペストの駅に降り立ってまずしたのは、ユースホステル予約の列に並ぶこと。
 複数の窓口それぞれに、長蛇の列である。

 あと2人待てば自分の番、というところで、「予約はいっぱいになった」と、受付窓口のカーテンがシャッと閉められた。あちゃー。

 あとは、警察の許可した民宿に泊まるしかない。

 隣の列で私と同じ反応をしていた女性がいた。お互いに苦笑いしながら、一緒に泊まろうか、と、合意。そこに、でかいリュックを背負った女性2人組が遅れてやってきた。彼女たちも誘ってみよう!

 最初に声をかけあった女性は、プログラマーをしているというアメリカ人。後の2人は、ナースをしているイギリス人で、うち1人は既婚者だった。

 結局、この3人と共に、ハンガリー国内を1週間ほど旅した。保養地として有名なバラトン湖にも行った。ここにはユースホステルならぬユースホテルがあり、そこに泊まった。「西側の女4人」の私たちは、良くも悪くも、どこに行っても注目された。

 ブダペストでは、昼間はみな自由行動をとっていたので、私はその時間にシリア大使館に、ビザの申請に行った。カダフィ大佐のような風貌の担当者に、かなりしつこく目的を聞かれた。



 実は私、入国審査で何度も引っかかった。係員が私の顔とパスポートを何度も見て、ブラックリストと照合するのだ。一体どんな人がブラックリストに載っているのか?

 それはリストというより、「ブラックブック」と呼ぶのがふさわしい厚さがあった。私がそれを覗き込もうとすると、相手は当然、隠す。

 3回目(3カ国目)でようやく、リストの名前を読むことができた。井上〇〇子さん。
 係員は、彼女と私の名前(アルファベット)を1文字ずつ確認して、最終的には別人だとわかって通してくれるのだが、私が間違われたのはどんな人物なのか、興味津々である。

 帰国後に確認したところ、彼女は私より5歳年上のNPOスタッフで、語学が堪能らしく、翻訳の仕事をしておられ、また、著名な雑誌に寄稿もしておられる方だった。

 今回、改めてネット検索したところ、当時とは別のNPO法人を立ち上げて代表を務めておられるようだ。どのような理由でブラックリストに名前が掲載されたのかは、分からない。


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 ブダペストでは、地元の女性2人と親しくなった。彼女たちの方から積極的に声をかけてきたのだ。
 観光地を案内してもらっているうちに、1人が、オペラハウスでバレエの公演があるから一緒に行きましょうと誘ってくれた。ハンガリー国立歌劇場。演目は「ロメオとジュリエット」。あの煌びやかなボックス席に座れるなんて、予想だにしなかった。嬉しいことこの上ない。

 当日2人は、ペラペラの化繊ワンピース姿で登場したが、私の格好を見て、「もうちょっといい服はなかったの?!」と、呆れた。

 いやいや、貧乏旅行の予定だったので、スカートというものを1枚も持ってこなかったし、出来の悪い服をパリで買う気にもならなかったのだ。

 当日の私の服装は、ナイロビ大学で撮ってもらった写真とほぼ同じ。
 綿・絹50%ずつの糸で手編みしたサマーセーター、プランテーションのカーディガン、ワイズのパンツ、プランテーションのペタンコ靴。

 シルクコットン糸の材料費だけでも彼女たちのワンピースの値段を超えているはずだが、そこは下手に出て、「ワンピースもスカートも持ってきていないので。ごめんね」と、ひたすら謝った。


 驚いたこと。
 悲しい結末に、周囲のあちこちから啜り泣く声が聞こえた。会場を見渡すと、ハンカチを手に本当に泣いている人がけっこういる。
 この時は、自分が「スレた人間」に思えて、ちょっと悲しくなった。

 嬉しかったこと。
 幕間には、オードブルとワインが無料で振る舞われる。
 黒く光るあの粒々は・・・キャビア!! 私はキャビアのカナッペばかり、かな〜りいただいた。

 そして、最後のどんでん返し。

 2人への感謝はこの上ない。ぜひお礼をしたいので欲しいものを言って、と、尋ねた。

 「お礼はドルでちょうだい」
 それが答えだった。

 当時のハンガリーでは、ドルを貯めてアメリカに渡るというのが大きな夢で、彼女たちもそのためにドルを貯めており、ドルが目的で西側人間の私に声をかけたのだ。

 感謝の気持ちはいっぺんにしぼんだ。いや、資本主義国人間の勝手な思いだけどね。







 
 

はね奴一代記 リブ19ーとおからじ舎15ー1人旅3

 ドイツが東西に分離されていた時代、ベルリンは東ドイツの領地にあったが、その西半分を英米仏が管理し、東側をソ連が管理していた。
 東ベルリンから西ベルリンへの流入が後を絶たないため、それを阻止すべく、東ドイツが(ソ連の後ろ盾を得て)張り巡らせたのがベルリンの壁である。

 もう記憶がぼやけているが、私はたしかハンブルグから、ベルリン行きの列車に乗った気がする。東ドイツに入ると、ベルリンまでの途中の駅には一切停まらない特急列車である。

 チェックポイント・チャーリーで、1日のみ滞在できる手続きをして、街中に出る。ブランデンブルク門を目の当たりにしたときは、感慨深いものがあった。

 国内外を問わず、旅先では、私は必ず百貨店(あれば、だが)に入ってすべての階を見て回り、食堂があればそこで食事を取るか、お茶orコーヒーを飲む。大学街ならキャンパスを散歩し、入れるなら図書館に入る。

 東ベルリンでも、私は大きなマーケットを目指した。
 売り場に入れる人数は限られており、私は入り口の行列に並んだ。店内に入るには買い物カゴが必要で、店を出る人が店員さんに渡すカゴが、行列の先頭に立つ人に渡されるという仕組みだ。

 私にカゴを渡すとき、「何しに来た?!」と言わんばかりに店員さんに睨まれた。東欧の人にはすぐ「西側の人間でありかつ日本人」だと見抜かれるのだ。

 逆に西ヨーロッパでは、旅行者ならぬいでたちの私はしょっちゅう地元在住と勘違いされ、お店の場所や行き方を尋ねられた。ただし、日本人を除いて。

 パリの滞在期間が一番長かったので(のべ1か月半ほど)、観光に来ている日本人グループにはしばしば遭遇したが、ひどい場合には、こちらが声をかけてもプイと横を向いて離れていく女子グループさえあった。
 Sさん曰く、「パリに住んでいるのが羨ましくて嫉妬して反発するのよ」だそうである。

 話を戻す。

 お店に入っては見たものの、棚はどこもスカスカ。靴売り場には5足ぐらいがポツンと並んでいるのみ。どうやらこれはサンプルで、サイズを告げると在庫を確認してくれるようだが、あまりのことに私は何を手に取る気にもならず、からのカゴを店員さんに戻して店を出た。滞在時間は多分30分ぐらいだったろう。

 西ベルリンはごちゃごちゃと賑やかだったが、アメリカっぽく感じられて(アメリカに行ったことはないけれど。笑)、あまり好きではなかった。ドイツの他の都市は落ち着いていて好きだったのだけれど。

 スペイン、ポルトガル、イタリアなどの南欧は回れなかった。いや、行こうと思えば時間はあったが、私の気持ちは、ナイロビのワークショップに参加して以来、パレスチナに向いていた。

 いろいろ調べた結果、シリアの首都ダマスカスにあるパレスチナ難民キャンプで、医師の信原孝子さんが活動されていることを知った。
 彼女に会おう。そのためにはまずシリアのビザを取得しなければならない。

 ハンガリーの首都ブダペストにシリア大使館があることがわかった。せっかくなので、ハンガリーも旅してみよう。

 方向性が決まった。

 インターネットのなかった時代。私が調べ物をしたのは、もっぱら、ジュンク堂書店のパリ支店である。漫画雑誌もあって(嬉しいことに、『りぼん』が船便で届いた。もちろん購入して、隅々まで繰り返し読んだ)、何度も何度もお世話になった。定期的に通っていたという方が正確だろう。

 信原孝子さんはすでに故人だが、彼女の生涯は、「聴診器を手に絆を生きる」 信原孝子医師のパレスチナ解放運動と地域医療 (信原孝子遺稿・追悼文集) で知ることができる。

 なお、この本を紹介している「パレスチナの平和を考える会」は、私のハイボールづくりに欠かせない「ソーダストリーム」不買運動を行っておられるので、私は一切関わっていない。
 運動スタイルが、私にはちょっとそぐわない。






はね奴一代記 リブ18ーとおからじ舎14ー1人旅2

 ストックホルムでの「女性運動の拠点訪問」は、実に楽しい半日となった。

 旅のスタイルは、1&1方式。経費節減のため、夜行列車で移動した後は、新しい街で一泊し、連泊する場合を除いて、次の移動はまた夜行列車にする、という方式である。夜行での移動が続くとしんどいが、間にベッドで一泊すれば、疲れは取れる。まだ若かったからね、当時は(笑)。

 朝に到着した都市では、駅前に必ずあるインフォメーションセンターで当日の宿を予約し、地図をもらい、おすすめスポットを教えてもらう。会話は英語。ツーリストイングリッシュで、すべて用が足りた。

 ストックホルムでは、階上に図書館とレストランのある公的施設をまず訪問した。1階から4階ぐらいまでは、スウェーデンの福祉政策を展示するフロアになっていた。スウェーデン語はまったく理解できないが(観光施設ではなく、地元の人たちのための施設だったので、英語表記はなかった)、写真が豊富にあったので、概略は理解できた。

 お昼になるのを待ち構えて(笑)、レストランに上った。
 お店はレストランではなくセルフサービス式のスモーガスボード。私も列に並んで、興味のある料理とパンをプレートいっぱいに乗せ(笑)、空いているテーブルに運んだ。

 いやー、海鮮類の美味しいことといったら!! とてもリーズナブルなのに、味は極上だった。

 そして、それ以上に楽しかったのが、地元のおばちゃんたちとのやりとりだ。
 公的施設のカフェなので、相席は当たり前。私の前に座ったおばちゃん2人との愉快な「対話」が始まった。

 彼女たちは英語を話さない地元民。私は、スウェーデン語のまったくわからない日本人。
 にもかかわらず、お互いの話している内容はちゃんと理解できる。実に不思議であり、面白い。

 お2人は、私の目指している女性グループ活動拠点への行き方、タクシーに乗る場合の行き先の告げ方、トイレを探すときの尋ね方などを教えてくれたのみならず、それらのスウェーデン語表記を1枚ずつカードに書いて、渡してくれた。このカードを相手に見せれば目的が伝わるというわけだ。

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 女性グループの拠点には、タクシーに乗らず、徒歩でたどり着くことができた。
 天井が吹き抜けで広々とした二階建ての一軒家。活動内容も広範囲で、日本のリブのありようが、とおからじ舎の活動も含めて、ちまちましたものに思えてしまった。

 残念ながら、こういった感覚は、帰国後はマイナスに働いてしまう。


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 パリに着いたら、思いがけない出来事が待っていた。

 私が泊めてもらうのは、高校時代からの友人Sさんが押しかけて同棲していた恋人の住まいである。ところが・・・

 私が到着する直前に、お祖母さんが危篤になったという知らせが日本から届き、彼女は急遽、帰国したという。
 ただ、Sさん本人は、「(私には女としての魅力がなく)恋人と2人きりになっても心配はないので、滞在しても構わない」と、私にも恋人にも伝言を残していたので、泊めてもらうことに支障はなかった。
 考えれば失礼な話だが、私は彼女の「見下し」にすっかり慣れていたので、泊めてもらえればラッキー! と、喜んだ。

 その後、彼女のお祖母さんは亡くなり、Sさんは、葬儀後の諸行事が終わった後にようやくパリに戻った。なので、私の居候生活の5分の2は大家さんと2人、5分の2は、大家さんのバカンスの留守を預かる1人暮らし、そして残りの5分の1だけが、日本から戻ったSさんとの3人生活となった。

 パリでは、東京銀行パリ支店に勤務する日本人夫妻(大家さんも知り合い)にあれこれお世話になり、夫妻と大家さん、私の4人で、ベルサイユ宮殿をはじめとする「観光地」にも出かけた。

 大家さんは、赤ちゃんが産まれたばかりの、事実婚の友人カップル宅に案内し(ロフトみたいなところに住んでいた)、ル・モンド(新聞社)が主催する巨大移動遊園地や、夜遅くに始まるジャズライブにも連れて行ってくれた。
 ただ、ライブハウスでお酒を飲んだ後、大家さんが、真夜中の道路で車を飛ばしまくるのには驚いた。飲酒運転だぜ(苦笑)。


 朝起きて、お向かいのパン屋さんで美味しいバゲットを購入し、朝食後に地図を広げてその日の予定を決める。実に贅沢な日々だった。

 大家さんの職場は徒歩圏内にあって(!)、お昼には自宅に戻ってランチをとっていた。彼は学生時代に1人暮らしを始めたので、家事はお手の物。「正式な妻」になりたがるSさんがあれこれ世話を焼くのは「迷惑だ」と、はっきり言い切った。Sさんは精神的にも経済的にも自立すべきだという意見で、私たちは一致した。

 Sさんが戻ってからの日々は本当にうっとおしかった(苦笑)。

 驚いたことに、彼女は1人でパリのあちこちに出向いたことがないという。メトロやRERに1人で乗るのが怖いから、と。
 つまり、平日はアパルトマンから徒歩で行ける範囲から出ず(パン屋さんもマルシェもスーパーもあるので、生活には困らない)、週末になると彼にねだってあちこち連れて行ってもらうのだとか。

 で、今度は旅行者の私に、彼女の行きたいところに連れて行ってくれと頼むのだ。
 ……ったく、パリに何年住んでるの? あんたは!! である。
 短くとも2年は経っていたと思うのだが。

 また、私が料理をしようとフライパンを手に取ると、「それは〇〇専用だから使ったらダメ」とか、「うちではそんなやり方はしない」とか、いちいち口を出して「主婦ヅラ」をする。

 彼女がいないときは、大家さんと私で一品ずつ得意料理を作り、それを半分こして食べるといった「楽しい」夕食をとっていたのに。

 ちなみに大家さんが最も喜んでくれたのは、チキンポトフを作ったとき。仕事を終えて帰宅した彼は、ドアを開けるなり「う〜ん、いい匂いがする!!」と大喜び。「美味しい」を連発して食べてくれた。

 私が彼に教わり、今もときどき作るのは、スパニッシュオムレツ。じゃがいものホクホク感がたまらなく美味しい。



 なお、パリはファッションの都と言われるが、あれは高級服に限ったもので、街中の衣料品店のみならず百貨店でさえ、レベルは大したことがない。

 私の滞在中にバーゲンセールが開催されたので有名どころを巡ってみたが、見るべきものなし。縫い糸がひきつれていても、店員さんは平気で「ノープロブレム!」と英語で購入を迫ってくる。が、日本なら、こんなものはそもそも店頭に並ばない(あくまでも1985年当時の話である)。

 百貨店「ギャラリー・ラファイエット」に、日本人デザイナーの店(イッセイ、ヨージ、ケンゾーなどなど)が並んでいる一角があった。私はプランテーションの日本人店員さんと顔見知りになり、パリの服の粗雑さをあげつらったものだった(苦笑)。

 いま、日本でも多店舗展開しているH&MやZARAといったヨーロッパ発祥のファストファッション店をのぞくと、パリのブティックを思い出す。なので手を出さない。


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 女性の活動拠点、並びに都市で最もショックを受けたのは、ドイツが東西に分かれていた当時のベルリンだ。西ベルリンにある女性運動の活動拠点は「ベルリンの壁」のすぐそばにあった。彼女たちは、政治色のとても濃い活動をしていた。

 チェックポイント・チャーリー、あるいはフリードリヒ・シュトラッセ。
 忘れられない名称である。

 


 

はね奴一代記 リブ17ーとおからじ舎13ー1人旅1

 ヨーロッパでの移動にはユーレイルパスを使った。宿泊は、基本的にユースホステルやバックパッカー向けの安宿にするつもりだったので、事前にYHの会員証を国際版に換えておいた(当時の会員証は紙製で、顔写真を貼り付け、偽造を防ぐために写真に割印を押す仕様だった)。

 前回の日記(ヨーロッパでの訪問国)を読み返して、ギリシャが抜けていることに気づいた。アテネはけっこう気に入って連泊したのにね(苦笑)。

 スカンジナビア半島のうち、フィンランドにだけ行っていないのには理由がある。

 デンマーク・コペンハーゲンのユースでのこと。小学生の子どもと中年女性という組み合わせの日本人と同室になった。てっきり母娘かと思ったが、そうではなく、旅慣れした女性が、「うちの娘を連れて行ってほしい」と友人に頼まれ、夏休みを利用して旅行中だという。少女のお母さんは、家族の世話や仕事で時間が取れないから、と。

 彼女たちは翌日には日本に向けて出発するという。そこで女性が「悪い誘い(爆)」をしてきた。
 スカンジナビア半島に特化した「スカンジナビアユーレイルパス」というチケットがある。
 それを使って2人はフィンランドとデンマークを旅したのだが、スウェーデンとノルウェーには行けなかった。だから、良ければこれを使って、と。

 スカンジナビアユーレイルパスは、同じ国には一度しか入れず、車掌さんの検札時にはパスポートを添えて提示しなければならない。したがって譲渡はできない仕組みなのだが、彼女曰く、
 「日本人はとても信用されているから、パスポートは要求されないわよ」と。

 実際、パスポートもいちおう手にして検札に臨んだが、どの国でも、こちらが笑顔で挨拶すると(こんにちわ、ぐらいは、現地の言葉を覚えた)、車掌さんも笑顔で挨拶を返し、パスポートを確かめることなく、ユーレイルパスに検札印を押してくれたのだった。

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 フランクフルトで知人宅にお世話になったとき。
 日本に帰国中だったお連れ合いが戻ってこられた後、彼女に、ドイツ各地の女性関連資料を保存する「文書館」に連れて行ってもらった。

 当時の日本にはハコモノの女性センターはまだなかったので、そこで働く女性が公務員と同等の収入や権利を保障されていると知って、羨ましく思ったものだ。
 文書館は、裕福だった女性の遺産(寄付)によって作られたということだった。

 日本では、京都精華大学名誉教授の藤枝澪子さんが亡くなられた後、「ジェンダー平等をめざす藤枝澪子基金」が作られ、応募者(個人、団体など)の中から選ばれた活動に助成金が送られるという制度があった(2013年〜。現在は終了している)。

 私の願望としては、お金持ちフェミニストの皆さんが、生きているうちから「おかね配り」をしてくれるといいのに、との思いがあるのだが、そういう話は一向に聞こえてこない。

 「子ども食堂」や「片親家族の居場所作り」に関わっている知人は何人かおられるが、皆さん、決して「金持ち」でも「勝ち組」でもない。

 ま、リブ活動の中でも「小金持ちが一番ケチ」というのが通説になっていたんだけれど(苦笑)。


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 フランクフルトでの強烈な思い出といえば、日航機の墜落事故である。

 ドイツ名物大型ビアガーデンで美味しく食事をいただいていたとき、近くのテーブルの男性が、新聞を手に声をかけてきた。日本人か? と。

 ドイツ語は話せないので、会話は知人夫妻にお任せ。新聞には、山中に墜落した日航機を空から撮った写真、数百人の搭乗者が亡くなったこと、犠牲者に著名な歌手である坂本九さんが含まれていること等が書かれていた。

 九ちゃんは『上を向いて歩こう(sukiyaki)』でアメリカのヒットチャートであるビルボードの1位になったことがある。その名は世界的に知られていたのだろう。


 フランクフルトのあとは、知人夫妻の車で、ハイデルベルクまで送ってもらった。

 中学時代、『アルト・バイデルベルク』を読んで以来、訪れたいと願っていた町である。
 大阪でミュージカルが上演された時も観に行った。

 ネッカー川のほとりを歩き、ヒロインが働いていた居酒屋(のモデル?)でビールも飲んだ(笑)。
 ここでは2泊し、街の佇まいと雰囲気をたっぷり味わった。


 つい先日(1月24日)、ハイデルベルク大学の男子学生が銃を乱射して複数の学生を死傷させ、本人も自殺したというニュースが流れた。遠い旅の思い出に浸っていた私は、驚くしかなかった。


 
 

 

はね奴一代記 リブ16ーとおからじ舎12ーナイロビへの道7

 主催するワークショップが無事に終わった後は、肩の荷が下りた気がして、身軽にワークショップを見て回った。
 地元ケニアの女性が主催するワークショップはほぼなくて(政府間会議ではあったのだろうが)、彼女たちはもっぱら大学キャンパスのあちこちで、民族衣装を身に纏って歌ったり踊ったりしていた。それはそれで楽しかったので、私も参加して、ダンスに興じた。地元の人たちの踊りを真似すると、喜んで囃し立ててくれた。

 強く印象に残っているワークショップを挙げるとすれば、パレスチナ女性の主催したものだろうか。

 日本にいると、ナチスドイツの「ホロコースト」や、小学生のころから何度も読んできたアンネ・フランクの伝記や「アンネの日記」の影響もあって、ユダヤの人々に対する「共感」「同情」のようなものが、自然に、かつしっかりと、身についている。

 第二次大戦後、流浪の民であったユダヤ人がイスラエルを建国した、と世界史で教わっても、ふぅ〜んそうか、というほどの感想しか、私は持たなかった。

 しかし、世界各地に暮らしていたユダヤ人が大量に流入したため人口過剰となり、ユダヤ国家イスラエルは、それまでパレスチナに住んでいた人々を迫害し始める。あらゆる手段を使って攻撃して。

 それに抵抗し、反撃する戦いも当然起きる。
 いまも対立は続いている。

 その程度の認識しかなかった私にとって、徹頭徹尾、パレスチナの側から論陣を張る女性たちの訴えは、ずしんとお腹に響いた。

 「日本赤軍」からの「お誘い」を無視した私だが、パレスチナ問題を知る必要はあるな、と、考え始めた。


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 街中で(たぶん、インターコンチだったと思う)、日商岩井のおじさんたちと、バッタリ遭遇した。NGOフォーラムが終わったらどうするの、と尋ねられて、モンバサ(インド洋に面した都市)に行こうかと思っていると答えたところ、自分達も出張で行く予定があるので、乗せて行ってあげるよ、と言ってくれた。ナイロビで健気に頑張る(? 笑)私を、それなりに認めてくれていたようだ。

 約1か月間の滞在を終えて、お世話になった方々とナイロビに別れを告げ、おじさん2人の車に同乗。すると、「今日は、井上さんをサファリに連れて行ってあげよう」という。

 え? そんなに簡単に行けるんですか?!

 おじさんたちが笑っている。

 モンバサは貿易港で、仕事でナイロビとの間をしょっちゅう往復していると、野生動物に出くわすことも多く、彼らと遭遇する確率の高いルートがわかってきたという。

 思いがけない展開。
 そして予告通り、さまざまな野生動物と遭遇した。

 遠くに見えるキリン。

 2mはあろうかと思われる極彩色の巨大トカゲが車道に見えたときは、横断し終わるまで、車はエンジンを切って静かに移動を見守った。

 哲学者のような風情で道路脇に座って私たちを観察するゴリラのご一行様。

 10頭ほどのゾウの群れを見つけたときには、3人揃って車を飛び出してカメラを構えたが、物音を聞きつけた彼らは一斉に回れ右をしてかなりの速さで離れていった。現像した写真にはお尻ばかりが写っており、見直すたびに笑ったものだ。

 ナイロビへの帰りのバスについても丁寧なアドバイスをいただき、日商岩井さんとはモンバサでお別れ。トカゲが壁を這うホテルで一夜を過ごし、街中を散歩し、教えられたバスに乗って帰還、そして空港へ。

 ケニアを離れた後は一旦ロンドンに戻り、イギリス国内を観光することなく、大陸に渡った。ヨーロッパで訪問した国は、フランス、ドイツ、オーストリア、オランダ、スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、ベルギー、スイス、東西ベルリン、ハンガリー。
 現地の女性グループや施設で交流できたのは、ストックホルム、西ベルリン、フランクフルト。ただ、街中の出会いはいっぱいあって、楽しい思い出が詰まっている。







 

 

はね奴一代記 リブ15ーとおからじ舎11ーナイロビへの道6

 ワークショップは、2グループ合同で行われることになっていた(現地で参加手続きをするときにもらったプログラムや案内で知った)。私とシェアするのは、四国からやってきた、おハイソなおばさま方。テーマは高齢女性・高齢化社会。日本では私と真反対の優雅な生活を送っておられるであろうと想像できる方々だ。

 会場の教室には、結構な数の人々が集まってくれた。

 四国のおばさま方に、私は大いに助けられた。皆さん、英語が堪能なのだ。多分、「夫の仕事の都合」などによる「海外在住歴」がそれなりにあり、赴任地でしっかり「マダム外交」をつとめてこられたのだろう。そんな雰囲気をお持ちだった。

 私の拙い発表にも、いくつもの質問の手が上がった。かろうじて内容は聞き取れるものの、それへの「こたえ」を、私はすぐに英語で話せない。それをみてとったおばさまが、「日本語で話して。それを私たちが通訳するから」と言ってくださった。本当に助かった。

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 ワークショップ終了後、オランダ人のジャーナリストさんから、取材の申し込みがあった。よくわからないところがあったので詳しく聞きたいという。

 質問のテーマは日本のパート労働についてだった。
 私の発表では、労働白書(政府発行)のデータなどを引用しつつ、ほぼ全員が女性であるパートタイマーの賃金が低く、容易に解雇され、労働者としての権利も社会保障も不十分であると伝えた。

 それが理解できないという。

 当時の日本はまぎれもない「先進国」であり「経済大国」だった。そんな国でこんなにひどい労働環境に置かれている人たちが大量にいるなんて信じられない、と、彼女は言った。

 でも、事実なんです。
 そう答えるしかない。

 オランダでは、男女を問わずパートタイマーの割合は多いが、単位当たりの給与や権利は正社員と同等だという。帰国後に調べたら、本当にそうだった。

 当時のオランダよりはるかに「裕福」だったはずの日本社会を下支えしているのが、底辺に置かれた労働者であり、被差別者であり、大量の主婦パートだった。

 このような現状と、それに抗して闘っている人々の存在を伝えられたこと一点を取っても、NGOフォーラムへの参加、ワークショップ開催は正解だったと思う。


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 ワークショップの後は美味しいものを食べに行こうと、チヨちゃんと約束していた。
 2人して歩いていると、タクシーがすぐ横に止まり、窓を下ろした向こうに、顔見知りの顔があった。日本では著名な女性学研究者である。ナイロビ大学の中でも顔を合わせていた。

 「ねぇ、あなたたち、何を食べに行くのぉ?」
 「焼き肉ですっ!」
 「あらぁ、臭いじゃないのぉ。私はね、運転手さんに、ナイロビで一番美味しいお店に連れて行ってとお願いしてるのよ。じゃぁねぇ〜!!」

 は????

 京都在住の彼女とは、五条通にあったフィンランド料理のレストラン(フィンランディア。現在はない)で2度ほど遭遇したことがある。

 焼肉(韓国料理)を見下すような表現がちょっと不快だったが、私たちは2人とも焼肉大好きなので、チヨちゃんご推薦の店にそのまま行き、タスカビールで乾杯。お互いを讃え、いたわり合った。







 

はね奴一代記 リブ14ーとおからじ舎10ーナイロビへの道5

 ドミトリーから、本来泊まるはずだったホテルに移動できたのは、4日目だったと思う。
 こざっぱりしたツインルームはバス・トイレ付きで、塗りたてのペンキのにおいが充満していたが、嫌ではなかった。

 私同様、1人でNGOフォーラムに参加するヨーロッパのどこかの国の女性と同室だという説明だったが、その女性は結局現れず、私は最後までツインルームを独り占めできた。

 ホテルには長期滞在者用の個室もいくつかあり、住人の1人である日本人のチヨちゃんと、すぐに出会った。イギリス人シスターが、日本からの旅行者がいると彼女に伝えていたらしく、ホテルロービーで彼女が私を待っていてくれた。

 チヨちゃんは無教会のクリスチャンで、こざっぱりとまとめられた個室には、聖母マリアの絵が壁に飾られていた。20代の若さで彼女はアフリカに渡り、ナイロビを拠点に、ケニア各地でボランティア活動を行っていた。

 彼女が滞在するのは、ガス・水道・電気のない地域。定期的に給水車がやってきて、村人の生活に欠かせない水を供給する。チヨちゃんの具体的な仕事は、地元の人々、とりわけ子どもたちに、身体を清潔に保つ必要性を伝え、最低限の水で身体を拭き、歯を磨き、手を洗う方法を指導し、それが生活習慣として根付くようサポートすること。

 食事も住まいも最低の環境ゆえ、ヨーロッパからやってきたシスターの多くは、精神的におかしくなって、1年も持たずに帰国する人が絶えないという。

 修道女ではないチヨちゃんは、精神的にしんどくなったらナイロビに戻り、数か月から半年ほど滞在して英気を養い、求められる地域に再び赴く。私が出会った時点ですでに3年余も、そういう生活を続けていた。


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 当時ナイロビには結構な数の日本人がいたが、その大多数とは、あいさつ以上のお付き合いをしたいとは思わなかった。

 青年海外協力隊員の男どもは、現地の「家政婦」さんたちを複数「雇い」、どちらとも性関係を持ち、「愛人」同士を競わせるという、醜い日常を送っていた。

 国際結婚の「悲劇」を感じさせる女性もいた。
 ケニアに旅行した際に、日本人と結婚したい旅行会社の男の「熱烈なプロポーズ」に騙されて結婚したまでは良かったが、その後、夫の度重なる「浮気」(日本人観光客の女性を片っ端から引っ掛けて遊んでいた)に苦しみ、かといって離婚して日本に帰るのも惨めと思い悩んだ末、新興宗教にすがっていた。

 安宿にたむろし、ミラーと呼ばれる葉っぱを日がな一日噛み続けるだけの「退廃した生活」を送っているバックパッカーの成れの果ても結構いるという。彼らの住む有名な安宿には近づくな、と、ジャズミュージシャンの恋人さんにも日商岩井さんにもチヨちゃんにもアドバイスされたので、実際にこの目で見たわけではないが。

 Yは、セントラルパークのすぐ近くに位置していた。ここには昼間、かなりの人数のカメラマンがたむろしていた。当時はまだ一般人にはカメラが普及していなかったので、記念撮影を商売にしているのだ。

 この連中が、夜になると「追い剥ぎ」に変身する。チヨちゃんは、初めてナイロビに来て早々、チェーンネックレスをむしり取られたという。なので、外出時には金目のものは一切身につけないようにとアドバイスされた。彼らは昼間、旅行者の身なりをチェックし、夜、それらの人々(とりわけ女性)が宿に戻る時に襲うのだという。

 「民度が低い」という、K教授の言葉がリアルに身近に感じられた。

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 チヨちゃんは、私の予定しているワークショップの話を聞くと、全面的に協力するといってくれた。
 何が心強いって、彼女はスワヒリ語ができる。私たちは早速、ワークショップを紹介するポスターを手作りした。

 下記の写真は、制作したポスターを手に、会場であるナイロビ大学キャンパスで、ワークショップをPRする2人である。通りすがりの誰かが、私のカメラで撮影してくれた。
 
 向かって左、英語のポスターを手にしているのが、日本の痴漢どもに「声もあげられず、されるがままにじっと我慢しているだろう」と舐められていた年頃の私(笑)。右の、キュートなイラスト入りのスワヒリ語ポスターを掲げているのが、チヨちゃん。イラストは、彼女が、あっという間にスルスルと描き上げてくれた。

ナイロビ大学にて














 かなり色褪せてしまったが(なにしろ36年以上前の写真だ)、今も大切に、玄関の靴箱の上に飾っている。ちなみに、玄関の飾り棚には、この写真とともに、ケニアのカラフルなサイのぬいぐるみ(堺町画廊で購入)、オルファカッターの創業者(兄と2人で起業)であり、現在は相談役をつとめる旧知の岡田三朗さんの手になる、切り紙細工作品、そして、ろくでなし子さんの3D作品「まんこちゃん」が飾ってある。

 







 

はね奴一代記 リブ13ーとおからじ舎9ーナイロビへの道4

 彼女のワンピースがコムデギャルソンと分かったのは、それを「いいなぁ」と、指をくわえて(ウソ)日本で見ていたことがあったからだ。

 道路の真ん中に立ったままで、まずは自己紹介。私が、Yのトイレが汚なすぎるのでこれから大掃除するのだと言ったら、彼女は笑いながら「頑張って!」と、励ましてくれた。その場で連絡先を交換し、のちの再会を約束して別れた。

 多分、数時間はかかったと思う。私は10もあるトイレの個室に片っ端から消毒液や洗剤をぶっかけ、タワシでゴシゴシ洗い、水で洗い流し、雑巾で拭いて回った。今後、自分の使うトイレを左から2番目の個室と決め、「それ以外の個室は掃除しいひんからね!」と、誰にも理解されないであろう日本語で、堂々と宣言した。かなりの達成感があった。

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 当時、日本人同士が待ち合わせるのに一番適していたのは、インターコンチネンタルホテルだった。ナイロビ滞在中、何度ここを利用したか覚えていないほど活用した。

 市場近くで出会った女性は、日本海側にある某都市の出身だった。
 彼女の話を要約すると、こうなる。


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 サックス奏者のナベサダが、アフリカで活躍するミュージシャンたちを日本に招聘して、ライブを開いた。
 ところがそのうちの1人が病に倒れ、入院。しばらく故国に戻れなくなった。
 言葉の通じない病院で1人闘病する彼を励まそうと、英語の話せる地元有志が仲間を募って、毎日病室を訪問することにした。そのメンバーの中に、彼女がいた。

 やがて2人は恋に落ち、彼女は、健康を回復して帰国する彼に、「絶対にそちらに行くから待っていて」と伝え、2人は再会を誓いあった。だから今ここにこうしている、と。

 作り物のドラマよりドラマチックな経緯だった。


 日本に招待されるほどの腕なのだから、彼の属するバンドは有名で、ヒットチャート上位の常連。ナイロビでは、白人と黒人VIPのための高級ナイトクラブで演奏しているという。
 私もそこに、連れていってもらえることになった。

 その前にまず、彼のバンドメンバーに紹介してもらい、食事を共にするという「儀式」があった。
 いやー、あれこれ参った(笑)。

 参ったその1)時間感覚がまるで違う
 約束の時間に訪問すると、ミュージシャンもその妻も、なーんも準備していない。
 そこから延々と準備(お化粧や服選び、ヘアメイクなど)が始まる。強烈な香水やオーデコロンの匂いが部屋に充満する。出発するまでに1〜2時間は当たり前のように待たされた。

 参ったその2)何ゆえ「強い子のミロ」?!
 私を待たせている間に出してくれるのが、どの家でもミロなのだ。
 私にとってミロは「子どもの飲み物」という認識だったが、日本人の彼女によれば、ナイロビでは最高のおもてなしとされるほど、大人にも人気が高いのだという。

 参ったその3)ウガリ攻め(苦笑)
 まぁ、これは、ケニアの主食のようなものだから、仕方ないと言えば言えるのだが、日本でも夕食は「おちゃけとおかず(=つまみ)」という生活を送っていた私にとって、ウガリ攻めは結構きつかった。
 しかも、のちにパリに渡ったら、家主さんがまた「クスクス」の大ファンで(苦笑)。


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 バンドの皆さんが演奏する高級クラブは市街地からかなり離れた場所にあった。そこまでは、メンバーと家族全員が、彼ら専用のバスで移動する。途中、巨大スラムのすぐそばを通る。
 行きは、「これが噂のスラムか」と思っただけだったが、帰路は、それまで数時間を過ごした豪華なナイトクラブとの落差で頭がくらくらした。

 私たちは、スタッフ専用の入口から入る。顔パス、つまり、ミュージシャンの家族や友人(私たち)も無料である。

 お店は広大だった。平屋建ての部屋以外に、かがり火の揺らめく庭にテーブルが点在し、その一角にステージが設えられている。ステージ前には踊れるスペースもある。

 庭で談笑しているのはほとんどが白人だった。
 
 演奏は素敵だった。私たちは好きにアルコールを飲み、音楽に合わせて踊った。楽しかった。

 まさかこんな出来事に遭遇するなんて。
 想像もしなかった展開に、私は心底驚いていた。

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 帰国後、約束していた写真をまとめて彼女に送ったが、知人によると、彼女に写真は届かなかったらしく、「約束を守らない!」と、私を怒っていたらしい。

 知人曰く、「ナイロビではまだ写真は貴重品だから、郵便局員や配達員が盗むのよ。そのせいで届かなかったのだと思う」と。

 知りもしない人々の写っている写真のどこが面白いの? と疑問だったが、彼女曰く、「私たちが、行ったことのない有名な観光地のポストカードや写真集を買うのと同じようなものだと思う」。
 そこに「異文化」があるから、興味を持って買う。ただナイロビの人たちの場合、お金がないから勝手に盗むのだ、と。


 この知人とは、YWCAで出会った女性でチヨちゃんという。彼女がいなければ、ナイロビでの充実した生活も、NGOフォーラムの成功も、なかった。



 
 

 
プロフィール

はね奴

京都市在住。本・雑誌・DVDの企画・制作。エッセイ講座講師。20代から、労働運動と女性運動の重なる領域に生息。フェミとは毛色が異なる。

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