河合隼雄が社会的に有名になるのは、私たちが被害を受けた後のことである。
「シンクロニシティ(共時性)」や「集団的無意識」という、神話、宗教、オカルト、スピリチュアリズム等々に近しいユングの「理論」を「わかりやすく」紹介することで、人気を得た。世間受けする内容だからだろう。
河合は、権力欲と自己顕示欲を満たすために政治的野心を燃やし、俗世的な出世を求めた。
文化庁長官という高級お役人に就任してそれなりの満足は得られただろうが、心理士の国家資格化を見ないまま亡くなったのはお気の毒であった(これは嫌味である)。
私は心理学の「専門家」ではないので河合の「研究?」への深入りは避ける。
代わりに、心理学ブーム、ならびに心理士の国家資格化をめぐる動きに対する専門家からの批判として、共感できるところの多い2冊の本を紹介したい。
出版元である洋泉社はすでにないが、古書店などでまだ購入できる。
『「心の専門家」はいらない』 小沢牧子著 洋泉社 (新書y)
『心を商品化する社会―「心のケア」の危うさを問う』 小沢牧子・中島浩籌 著 洋泉社 (新書y)
* * *
私は長い間「相談を受ける」活動や仕事をしてきたが、心理職やカウンセリングに関わる資格(民間のも国家資格も)は持っていない。そもそも資格を取ろうとしたことがない。それは、上記2冊の本の内容に共感する考えを持っているからであり、国家資格化をめぐる業界内のきな臭い話にうんざりしてきたからであり、国家資格化推進の「中心人物」であった河合隼雄に不信感しか抱いていなかったからである。
仕事で「同僚」となった「相談担当者」はほぼ臨床心理士の有資格者で、国家資格制度ができて以降は、たぶん皆さん、公認心理師の資格も取得されている。
だからといって、私が彼らや彼女たちより、相談を受ける人として不適切だと感じたことはない。
それどころか、そう多くもない同僚(元同僚)間で、カウンセラーがカウンセラーを追い詰めて退職させるケースに何度か遭遇し、そのたびに、カウンセリングや心理職の有資格者である加害者(ハラッサー)の抱え持つ「屈折した人間性」について考え込まされた。
私が直面した、カウンセラーによるパワハラの中でも一番ひどい例を挙げる。
Aさん(女性)は、着任して初めての会議に出席した後、組織上の上司(部長)に連れられて、ベテランカウンセラーB(中年男性)に新任の挨拶に行った。
事前に連絡を受けていたBは、カウンセリングルームで立ったままAさんと対峙し、自分がいかに偉いか、自分の言うことを聞かなければここではやっていけない、などなどと、高圧的な態度で演説をぶちかましたという。
これを知った私は驚いて部長のもとに赴き、直属の上司(相談部チーフ)にも同席してもらって、Aさんがショックを受けて泣いたこと、このまま放置すればAさんは辞める恐れがあることを伝え、即時の対応を依頼した。
しかし、部長から返ってきたのは、「まさか、あれくらいのことで辞めるわけがないでしょう」のひとこと。現場にいなかった私には「あれくらいのこと」かどうか、判断がつかない。ただ、体育会系の部長(体育教員免許の所持者)と私との間には、大きな認識のずれがあることを痛感した。
案の定、その日の退勤後、Aさんから人事・労務の担当者に、退職する旨のメールが届いたという。
私には、当日の経緯を詳細に記した手紙が届いた。必要があれば使ってください、と。
だから言ったでしょう! と、私は、部長に強く言いつのった。ハラスメント防止・対策を任務とするスタッフが、着任早々パワハラの被害に遭うなんて、笑いごとでは済まされない、と。
しかし、Bに対するお咎めは何もなかった。
同じ敷地の別のビルで仕事をしていたにも関わらず、私はBと会ったことがない。どこからどんな噂を聞いていたのかは不明だが、Bは私を毛嫌いしており、会うことを拒絶していたし、彼の支配下(?)にあるカウンセラー(複数の女性)には、私の仕事に協力するなとの指示まで出していた。
私の経歴(?)に、よっぽど拒否感があったのだろうか。ちなみにBは私より年上で、学生運動の元活動家だったらしい。
その後、Bは病に倒れて亡くなった。私が受け取ったAさんからの手紙は、Bに関して何かの「役に立つ」ことはなかったが、今も処分せずに手元に置いている。
* * *
無責任な放言で知られる、ひろゆき(彼を「論破王」と呼ぶ人は日本語を理解していない。笑)は、中央大学文学部心理学専攻出身である。彼はYouTubeチャンネルで、カウンセラー志望の学生の中には「メンヘラ」がそれなりにいたという話をしている。
その発言に、私は何度も頷いてしまったものだ。
https://www.youtube.com/watch?v=WEW_vfEQ-Xo
たしかに、精神的にダメージを受けたことのある人が、それを「乗り越えた」体験をもとに相談に対応して効果を生むケースもあるだろう。しかし逆に、相談者その人を見ずに、自分の体験に固執して方向性を指示してしまうというマイナスもある。
カウンセリングの「先進国」アメリカでは、カウンセラーがクライアント(相談者)の幼少時の「(実際はなかった)被虐待体験」を共に「作り上げ」て家族を訴えるケースが相次ぎ、社会問題になったことさえある。
* * *
ベトナム戦争からの帰還兵の多くが精神的にしんどくなったり自死したりした原因は、明らかに、殺戮が正当化される戦場で目の当たりにした悲惨で非人間的な出来事の数々だ。原因を根本的に取り除くには、戦争を防ぐ=平和な世界を作ることしかない。
しかしそれを「個々人の資質や生育歴の問題」へとすり替え、問題の本質から目を逸らせるためのひとつの技法として、心理療法やカウンセリングが使われてきた。
国家・資本といった権力の補完物として作用するカウンセリングや心理療法に、私は手を下したくない。同様に、組織(学校や職場や地域や諸団体、などなど)の抱える構造的な問題の結果生じた構成員の病や悩み、ハラスメント等々もまた、個人の問題にすり替えるべきではないと、私は考える。
「シンクロニシティ(共時性)」や「集団的無意識」という、神話、宗教、オカルト、スピリチュアリズム等々に近しいユングの「理論」を「わかりやすく」紹介することで、人気を得た。世間受けする内容だからだろう。
河合は、権力欲と自己顕示欲を満たすために政治的野心を燃やし、俗世的な出世を求めた。
文化庁長官という高級お役人に就任してそれなりの満足は得られただろうが、心理士の国家資格化を見ないまま亡くなったのはお気の毒であった(これは嫌味である)。
私は心理学の「専門家」ではないので河合の「研究?」への深入りは避ける。
代わりに、心理学ブーム、ならびに心理士の国家資格化をめぐる動きに対する専門家からの批判として、共感できるところの多い2冊の本を紹介したい。
出版元である洋泉社はすでにないが、古書店などでまだ購入できる。
『「心の専門家」はいらない』 小沢牧子著 洋泉社 (新書y)
『心を商品化する社会―「心のケア」の危うさを問う』 小沢牧子・中島浩籌 著 洋泉社 (新書y)
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私は長い間「相談を受ける」活動や仕事をしてきたが、心理職やカウンセリングに関わる資格(民間のも国家資格も)は持っていない。そもそも資格を取ろうとしたことがない。それは、上記2冊の本の内容に共感する考えを持っているからであり、国家資格化をめぐる業界内のきな臭い話にうんざりしてきたからであり、国家資格化推進の「中心人物」であった河合隼雄に不信感しか抱いていなかったからである。
仕事で「同僚」となった「相談担当者」はほぼ臨床心理士の有資格者で、国家資格制度ができて以降は、たぶん皆さん、公認心理師の資格も取得されている。
だからといって、私が彼らや彼女たちより、相談を受ける人として不適切だと感じたことはない。
それどころか、そう多くもない同僚(元同僚)間で、カウンセラーがカウンセラーを追い詰めて退職させるケースに何度か遭遇し、そのたびに、カウンセリングや心理職の有資格者である加害者(ハラッサー)の抱え持つ「屈折した人間性」について考え込まされた。
私が直面した、カウンセラーによるパワハラの中でも一番ひどい例を挙げる。
Aさん(女性)は、着任して初めての会議に出席した後、組織上の上司(部長)に連れられて、ベテランカウンセラーB(中年男性)に新任の挨拶に行った。
事前に連絡を受けていたBは、カウンセリングルームで立ったままAさんと対峙し、自分がいかに偉いか、自分の言うことを聞かなければここではやっていけない、などなどと、高圧的な態度で演説をぶちかましたという。
これを知った私は驚いて部長のもとに赴き、直属の上司(相談部チーフ)にも同席してもらって、Aさんがショックを受けて泣いたこと、このまま放置すればAさんは辞める恐れがあることを伝え、即時の対応を依頼した。
しかし、部長から返ってきたのは、「まさか、あれくらいのことで辞めるわけがないでしょう」のひとこと。現場にいなかった私には「あれくらいのこと」かどうか、判断がつかない。ただ、体育会系の部長(体育教員免許の所持者)と私との間には、大きな認識のずれがあることを痛感した。
案の定、その日の退勤後、Aさんから人事・労務の担当者に、退職する旨のメールが届いたという。
私には、当日の経緯を詳細に記した手紙が届いた。必要があれば使ってください、と。
だから言ったでしょう! と、私は、部長に強く言いつのった。ハラスメント防止・対策を任務とするスタッフが、着任早々パワハラの被害に遭うなんて、笑いごとでは済まされない、と。
しかし、Bに対するお咎めは何もなかった。
同じ敷地の別のビルで仕事をしていたにも関わらず、私はBと会ったことがない。どこからどんな噂を聞いていたのかは不明だが、Bは私を毛嫌いしており、会うことを拒絶していたし、彼の支配下(?)にあるカウンセラー(複数の女性)には、私の仕事に協力するなとの指示まで出していた。
私の経歴(?)に、よっぽど拒否感があったのだろうか。ちなみにBは私より年上で、学生運動の元活動家だったらしい。
その後、Bは病に倒れて亡くなった。私が受け取ったAさんからの手紙は、Bに関して何かの「役に立つ」ことはなかったが、今も処分せずに手元に置いている。
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無責任な放言で知られる、ひろゆき(彼を「論破王」と呼ぶ人は日本語を理解していない。笑)は、中央大学文学部心理学専攻出身である。彼はYouTubeチャンネルで、カウンセラー志望の学生の中には「メンヘラ」がそれなりにいたという話をしている。
その発言に、私は何度も頷いてしまったものだ。
https://www.youtube.com/watch?v=WEW_vfEQ-Xo
たしかに、精神的にダメージを受けたことのある人が、それを「乗り越えた」体験をもとに相談に対応して効果を生むケースもあるだろう。しかし逆に、相談者その人を見ずに、自分の体験に固執して方向性を指示してしまうというマイナスもある。
カウンセリングの「先進国」アメリカでは、カウンセラーがクライアント(相談者)の幼少時の「(実際はなかった)被虐待体験」を共に「作り上げ」て家族を訴えるケースが相次ぎ、社会問題になったことさえある。
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ベトナム戦争からの帰還兵の多くが精神的にしんどくなったり自死したりした原因は、明らかに、殺戮が正当化される戦場で目の当たりにした悲惨で非人間的な出来事の数々だ。原因を根本的に取り除くには、戦争を防ぐ=平和な世界を作ることしかない。
しかしそれを「個々人の資質や生育歴の問題」へとすり替え、問題の本質から目を逸らせるためのひとつの技法として、心理療法やカウンセリングが使われてきた。
国家・資本といった権力の補完物として作用するカウンセリングや心理療法に、私は手を下したくない。同様に、組織(学校や職場や地域や諸団体、などなど)の抱える構造的な問題の結果生じた構成員の病や悩み、ハラスメント等々もまた、個人の問題にすり替えるべきではないと、私は考える。