自分の半生を振り返るつもりが、いきなり横道にそれる(ははは)。
 この3か月ほど、ずっと心に引っかかっていたことを、ようやく文章化した。タイトル通りである。
 友人以外を対象にした文章を書くのは久しぶりだったので、結構苦労した。
 読んでください。

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 恣意的に作品を切り取る「美術批評」とは?
 「美術ヴァギナ展批評」を批評する


 京都市左京区岡崎にある画廊 KUNST ARZT で開催された『美術ヴァギナ』展(2021/04/23〜2021/05/09)を初日に見た。お目当ては、ろくでなし子さんの作品である。私は彼女の潔い作風が好きで、関西で作品展が開かれるときには絶対に行こうと、前々から決めていた。

 彼女の作品はもとより、他の女性作家の作品群も、オーナー岡本光博さんの作品も、なかなかに興味深く、私はたっぷりと展示を楽しんだ。

 ところが、岡本さんによると、美術・舞台芸術批評を専門とする高嶋慈さんという方が、彼とろくでなし子さんの作品を批判しているという。
 気になって、さっそくレビューを読んでみた。
 
 https://artscape.jp/report/review/10168690_1735.html

 かなり強い違和感があった。
 その理由を自分なりに整理したのが、下記の文章である。

 2人の作品について、高嶋さんはこう書く。

 …………引用開始…………
 ただ、本展企画者でKUNST ARZT主宰の岡本光博の作品と、ろくでなし子の新作には、ジェンダーの偏差的な視線や固定的な規範がこびりつく点で疑問が残る。ダジャレや記号的な遊戯性を駆使する岡本の作品は、「ウェットティッシュの取り出し口が女性器の割れ目の形をした、ピンク色のティッシュボックス」と、購入者のみ内部に封入されたものを覗ける《まんげ鏡》である。「自慰行為のおとも」と「覗き見」の対象であることを疑わない両者は、男性の「エロ」の視線の対象にすぎないことをさらけ出す。

 また、ろくでなし子の新作は、「まんこちゃん」のゆるキャラ人形と自身の女性器の3Dデータを出力した造形物を、「子ども用玩具」の無邪気で無害な世界に潜ませたものだ。前者では、ピンク色の「まんこちゃん」がやはりピンクを基調とした女児向けおままごとセットのドールハウスで暮らし、後者では、男児の人形が乗り込むオープンカーや電車、飛行機をよく見ると、人形を座らせる操縦席が割れ目の形になっている。ここでは、女性器(を持つ身体)は「おままごとセットが備えられた家」すなわち「家事=女性の再生産労働の領域」に再び囲い込まれてしまう。また、「3Dデータの作品化」は一見挑発的だが、「女体」=文字通りクルマや飛行機の「ボディ」として、「男性が思いのままに操縦し、またがり、使役する対象」として再び客体化されてしまう。この点で、(例えばろくでなし子自身が乗り込んで操縦する《マンボート》と比べると)、ジェンダーの観点からは批評的退行と言える。
 …………引用終了…………

 岡本作品評への違和感

 ギャラリーで作品展を開催する場合、会場の構成や、作品展示の方法、配置などに関しては、当然、事前に十分に検討され、工夫されているはずだ。
 KUNST ARZTの場合、ドアを開けたところに第1展示室があり、その右奥に、やや狭い部屋がある。高嶋さんが批判する「ピンク色のティッシュボックス」と《まんげ鏡》は、右奥の第2室に展示されている。
 そこに入ろうとしてまず目を奪われるのは、部屋の真ん中にどんと置かれたエアベッドである。右側の棚の窓際には、10冊前後の本や雑誌がブックスタンドに立て掛けられている。棚の真ん中あたりに「ピンク色のティッシュボックス」が置かれ、その手前奥に、透明ケースで囲われた《まんげ鏡》がある。壁には「マンネイル サンプルチップ」が飾られている。

 反対側の壁には、ブラジリアンワックス脱毛でできるシートを用いた造花(性毛が見える)や毛むくじゃら人形が飾られ、オーナー岡本さんの作品「SIX-SEX」がかけられている。これは壁掛け時計で、6時になると、長針と短針が垂直な線となり、「便所の落書き(岡本さん談)」の「おまんこマーク」が出現する。高嶋さんの批評には、この作品への言及はない。

 ベッドを見て、「ここで何をするんですか?」と岡本さんに尋ねたところ、「希望者があれば、ブラジリアンワックスのワークショップを行ってもらうことになっています」との答えだった。

 女性作家によるヴァギナアートが飾られたベッドルームで、女性を対象にしたアンダーヘア(性器周辺の毛)の脱毛が行われることをみても、この部屋を「男性が自慰する部屋」とみなすことには相当の無理がある。
 だが、高嶋さんは部屋全体を紹介せず、岡本作品のうち2つだけを取り上げて、「自慰行為のおとも」、「覗き見」と決めつける。
  
 森を見ず、特定の木だけに注目して「課題を指摘する」という態度は、ろくでなし子批判に、よりはっきりと現れる。

 高嶋さんは、「ピンク色の『まんこちゃん』がやはりピンクを基調とした女児向けおままごとセットのドールハウスで暮らし」、「女性器(を持つ身体)は『おままごとセットが備えられた家』すなわち『家事=女性の再生産労働の領域』に再び囲い込まれてしまう」と書く。

 しかし、実際のドールハウスは、ひとつの作品の一部分である。
 展示作品では、ドールハウス前に広いスペースが設定されている。その手前側では「ろくでなし子ちゃん」が3人の制服警官とピーポくん(警視庁のゆるキャラ)に囲まれており、背後に配置されたテーブルセットは、椅子が一つ倒れている。

 この作品は、ろくでなし子さんが家宅捜索を受けた後に逮捕された時の状況を表現している。
 ごくあたり前に暮らしていた部屋に、まんこアートを猥褻として、突然、警察権力が踏み込んでくる。かわいいおうちのかわいい女子が、かわいいおまわりちゃんたちに囲まれているというシュールさが、出来事の理不尽さを際立たせる。

 だが、高嶋さんは、作品全体を語らない。しかも、展覧会評には多くの写真が使われているにもかかわらず、この作品を紹介する写真はない。穿った見方と言われるかもしれないが、自分の主張を正当化するために、全体像のわかる写真をあえて外したのではないかとすら思う。

 一方、全体のわかる写真とともに批判されているのが、3Dデータを元に制作された「まんこカー」や「まんこ電車」「まんこエアプレーン」である。高嶋さん曰く、「『女体』=文字通りクルマや飛行機の『ボディ』として、『男性が思いのままに操縦し、またがり、使役する対象』として再び客体化されてしまう」と。
 高嶋さんは、まんこカーなどの作品は「(例えばろくでなし子自身が乗り込んで操縦する《マンボート》と比べると)、ジェンダーの観点からは批評的退行と言える。」とも書く。

 運転手(操縦者)が女だったら進化であり、男だったら退行? 
 なんという形式主義だろう。あまりにも考えが安直すぎないか?!

 また、高嶋さんが、まんこを「操作・使役の対象」と固定的に捉え、女性の身体・性を「主体」としてまるで想定しない(できない)ことにも、私は大きな違和感を抱く。

 たとえば、「男児の人形が乗り込むオープンカーや電車、飛行機をよく見ると、人形を座らせる操縦席が割れ目の形になっている(高嶋)」場面を、「坊やが、自分の出てきた場所に立ってるやん!(にっこにこ)」と解釈することも可能だ。これは、作品を見た私の感想である。
  
 「ジェンダーの観点」に立った芸術批評が、「進歩」だの「退行」だのという数直線的な基準で行われることに、私は首を傾げる。

 アート「鑑賞」は、自分を揺さぶるものを進んで求める行為である。
 願わくは、美術批評もまた、単線的な価値判断にとどまらず、読み手を揺さぶる複数の刺激点を持ち合わせたものであってほしい。

井上はねこ
ただのアートファン。好きな作品は、
リー・ウーファン(韓国)の初期シリーズ(「線より」「点より」)、
タイン・チュオン(ベトナム)の漆絵(田園、水牛、子ども、など)。